続いて、中華民国代表の汪兆銘が演台に立った。長身、ハン
サムな汪は、にこやかな笑顔と柔らかい声で聴衆を魅了した。
汪は孫文の大アジア主義を継承する国民党の中心人物の一人で
あり、日本側の誘いに乗って蒋介石政権と袂を分かち、新政府
樹立を図ったが、その後は日本の政策が二転三転して、何度も
苦汁を飲まされた。重光葵の新政策によって、汪はようやく
誠意ある態度に接したのであった。

 国父・孫(文)先生が日本に対し、切望致しました所の、
中国を扶(たす)け、不平等条約を廃棄するということも、
既に実現せられたのであります。

 重慶(蒋介石政権)は他日必ずや、米英に依存すること
は東亜に反逆することとなり、同時に国父・孫先生に反逆
することとなるべきを自覚し、将士及び民衆も亦悉(こと
ごと)く翻然覚醒する日の到来することは必定たるべきこ
とを断言し得るのであります。

この時が、悲劇の政治家・汪兆銘の数少ない栄光の檜舞台で
あった。このわずか1年後、かつて凶漢に撃たれた時の古傷が
もとで汪兆銘は死去する。その後は「漢奸」(売国奴)と非難
され、彼が覚醒を呼びかけた親英米派の蒋介石政権も、結局は
ソ連を後ろ盾とする共産党勢力に駆逐されて、中国大陸の悲劇
は果てしなく続いていく。