今さらですが「白河の関」って? 仙台育英の快挙で注目ワードに 1000年の扉を開けてみました

 今夏の第104回全国高校野球選手権大会で東北勢として初優勝を果たした仙台育英高(宮城)の快挙をきっかけに、「白河の関」が注目ワードに急浮上しました。奈良時代から平安時代にかけて機能していた国境の関で「みちのくの玄関口」と言われる場所です。「東北振興」「不羈(ふき)独立」を社是に掲げる河北新報の題号の由来であり、「平民宰相」と慕われた東北出身の元首相、原敬(たかし)=1856~1921年=とも深い縁があります。
(編集局コンテンツセンター・小沢一成)

元々は蝦夷に対抗するための前線基地
 「白河関跡(しらかわのせきあと)」は福島県白河市の国指定史跡で、栃木県境から北に約3キロの山間部にある。白河市のホームページ(HP)によると、関跡は標高約410メートルの丘陵で、白河神社がまつられている。

 福島大百科事典によると、関は古代の大和政権が東北の蝦夷(えみし)に対抗するために設けた前線基地だった。835(承和2)年、陸奥国(むつのくに)の長官が政府に宛てた文書には「400年前に創設した」と記録されていることから、設けられたのは5世紀前後とみられる。同事典は「大和国家の勢力がさらに北進した後は、軍事的任務は薄れ、陸奥国の国境検問的な役割が残った」と解説している。


平安以降はみちのくの象徴的な歌枕に
 平安時代以降、律令制度の衰退とともに白河の関は「遠いみちのくの象徴的な歌枕となり、都の人の文学的感傷をそそった」(福島大百科事典)。和歌での初例は、平安中期の平兼盛(たいらのかねもり)が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(「拾遺集」別)とされる。

 江戸時代の俳人松尾芭蕉は1689(元禄2)年、みちのくの歌枕を巡る「おくのほそ道」の旅で、白河の関を訪れた。「心許(もと)なき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記している。


 古来「みちのくの玄関口」だった白河の関。1897(明治30)年1月17日に創刊した河北新報の題号は、戊辰戦争に敗れ、「賊地」とされた東北地方を軽視する言葉「白河以北一山百文」が由来だ。「河北(かほく)」とは白河の関より北のことで、現在の東北地方を指している。

 創業者の一力健治郎(1863~1929年)は創刊号1面トップ記事「河北新報の抱負」で、白河以北一山百文を逆手に取った「河北」について、土地が豊かで山海の宝に恵まれ、開拓、開発の可能性に満ちた宝庫だと指摘。東北軽視への反発と東北復権への志を表明した。河北新報は創刊以来、同一の題号と社是、経営を貫いている。


平民宰相の俳号の由来にも
 大正時代の第19代内閣総理大臣で、爵位を持たない初の「平民宰相」だった盛岡市出身の原敬も、白河を抜きにしては語れない。原の俳号(俳句の作者としての雅号)が「一山(いっさん)」といえば、もうお気付きだろう。

 山形県酒田市出身の評論家佐高信さんは原の評伝「平民宰相原敬伝説」で、次のように書いている。

 「俳句をよくした原敬は『一山』と号した。いわゆる官軍の輩(やから)が『白河以北一山百文』と嘲笑(ちょうしょう)したのに抵抗してである。『平民宰相』と称したのも、薩長の藩閥政治家がお手盛りで侯爵とか伯爵とかになるのを軽蔑して、自分はそんなものは必要としないと峻拒(しゅんきょ)したからだった。」

 仙台育英高ナインは1915(大正4)年夏の第1回大会で秋田中(現秋田高)が準優勝して以来、東北勢として春夏合わせて13度目の決勝進出にして初めて頂点に立った。大旗の「白河の関越え」という言葉には、「東北勢の初優勝」にとどまらない、東北人の積年の思いが込められているように映る。

河北新報 2022年8月26日 6:00
https://kahoku.news/articles/20220825khn000023.html