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違くね?
> この祭りは、もともとは放生会(ほうじょうえ)に由来するものといわれている。
現在でも、この旧習自体は各地の寺社で催されているが、藤崎宮のこの祭りでは、その遺風を見出すことはできない。
実は1868年の神仏判然例により、「ほうじょい」は廃れてしまった[1]。
「随兵」は、加藤清正が文禄・慶長、大坂から無事帰還できたことを神前に感謝し、
みずから随兵頭となって兵100名を引き連れて藤崎宮の神幸式に供奉(ぐぶ)したのが起こりと伝えられている。
加藤家時代は一時、随兵が300人いたが、その後、細川藩政時代にも100名ではあるが継続され、
随兵行列の三役(随兵頭・長柄頭・御幸奉行)は家中で選抜された高位の者が務めた。
「飾り馬」は本来、供奉神職の乗馬であり、神職と同数の12頭が奉納されていた。
細川藩政期には家老格の家から馬を出していた。
また、かつて藤崎宮が鎮座していた藤崎台(現在は県営野球場がある)からは御旅所までの距離が短く、神職は乗馬せずに馬を曳いて供奉した。
そのため不用の鞍上に飾りを施したものが次第に大きくなり、今日のような紅白あるいは青白の太輪の飾りになったという。
馬上の飾りは「陽陰(ひのかげ)」と呼ばれ男女の性器を模った作りになっており、安藤流と小堀流の様式があったが、現在見受けられる型は安藤流のみとなっている。

> 卑猥語説
明治初頭の1870年の藤崎宮宮司が記した大祭記録で「暮暮志汰、即馬追言葉」とあり、
松江藩士桃節山は1865年の旅行記で「その囃子にはボボシタボボシタ(sexした)と申也」とある[7]。

男女の性器だからボボシタだろ?
そもそも朝鮮を滅ぼしてない