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そして更に悪化する。ベルリンの大学の薬学部の指導教官の内、45%が猶太人であった。ゲッチンゲンでは、数学の教授の34%、医学部の教授の34%が猶太人で、芸術部の40%、法学部の47%が猶太人であった。ブレスラウでは、薬学部で45%、法学部で48%、芸術学部で25%が猶太人、ケーニヒスブルクでは、芸術学部で7%、法学部が14%、薬学部が25%猶太人であった。

1928年、弁護士の猶太人割合は、ドルトムント29%、ハンブルク26%、シュツットガルト26%、ジュッセルドルフ33%、カールスルーエ36%、ボイテン(現ビトム)60%、フランクフルト64%、シュテティーン(現シュチェチン)36%、ベルリン66%であった。

個人開業医の猶太人の割合(1928)は、ヴィースバーデン20%、カールスルーエ26%、ケルン27%、マインツ30%、ゴータ31%、ボイテン36%、ベルリン52%であった。

ベルリンにある病院の医師の猶太人割合は、モアビット病院56%、フリードリッヒスハイン病院63%、ノイケルン病院が52%に及んだ。