>>894
福祉予算(支出)は、独逸政府の歳入の57%に上った。社会全体が崩壊に瀕していた。幸運にも仕事にありついていた人々も賃金・報酬が厳しく減らされていた為、そんなに恵まれていなかった。知識階級も同様に、いや寧ろ労働者階級よりももっと酷く打ちのめされた。
大学卒業者の失業率は60%に達した。高い教育を受けた人々が、どの様な仕事でも引き受けます、と背中に書いているのがベルリンの街で見られた。しかし、仕事は無かった。一番酷かったのは建設業の労働者であった。90%が失業した。

農民もこの二つの経済的災難、インフレと数年後それに続いた大恐慌でやはり破滅した。多数が住居や土地を抵當にすることを強要された。しかしそこで、経済が「破綻」し、不動産の価値が急落し、1932年には、今日の用語で言えば、これらは、借金の価値との割合で「不良債権」となった。
利息が支払えなくなった人々は、自分たちの住居や農場が競売に付され、結果的に外資の取引ができる人間(再度、主に猶太人)が普通の、しかし不幸な独逸人の窮乏につけ込んで金持ちになった。1931年と32年、17,157件の農場、総面積にして115万エーカー(約46万5千ヘクタール、68キロ四方)が、この様にして借金のかたに換金されたのだった。