https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170423-00010000-nishinpc-soci
八女(福岡県)が日本の首都になっていたかもしれない。突拍子もない
冗談のようだが、実は太平洋戦争中に政府が検討していた歴史的事実だ。
「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと。当時の資料をひもとき
「八女遷都論」について調べてみた。
「八女遷都論」が明記されているのは、1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」だ。
内閣総理大臣直属の組織で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した
「企画院」が作成した。現在は、国立公文書館の「アジア歴史資料データベース」
で公開されている。
この文書は朝鮮、中国、東南アジアにおける権益確立を目指す「大東亜共栄圏」
建設を見据え、政治、経済、産業、文化、防衛などを含めた国のあり方について
方向性を示したもの。計画の対象は日本、朝鮮、台湾。遂行目標を「一応15年」としていた。
「首都」の項目では、候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府
(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。条件として、
全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない
▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など
計6項目を明示。福島町は条件をクリアしていたようだ。
極秘文書は現八女市出身の県職員が発見
首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、
外国公館などとしているが、「極力不要なる機能の集中を抑制する」とも記載。
「防空、耐火、耐震および美術上の見地において最も完全なる都市の造成に重点を
指向する」と目標を掲げており、あらたに計画都市を造ろうとしていたことがうかがえる。
極秘文書は1967年、福岡県立花町(現八女市)出身の県職員だった故松延茂さんが発見した。
松延さんは地域文芸誌「飛形」への寄稿で発見の経緯を振り返っている。当時、松延氏は
県の企画室企画主査として県総合開発計画の策定に当たっていた。その参考資料を集める
中で、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。
この「中央計画素案」策定から2年後に日本は敗戦。遷都案も消えた。松延氏は寄稿の中で、
矢部川の自然豊かな風情を表現した洋画家・青木繁の書簡の一節を紹介しながら思いを
語っている。「福島町中心地区が首都になっていたら、わが故郷の様相はどうなっていたことか。
時折、白昼夢にも似たまぼろしの首都を思い描いてみることを楽しみにしているが、
そのようなとき、青木繁の詩情が私の心をゆさぶるふるさとである」
もし、福島町に首都が置かれたら、現在、八女はどうなっていただろう。国会や中央省庁が
集まり、周辺も高層ビルが立ち並んでいるのではないか。人口も比べものにならないほど
増えていたはずだ。一方で、伝統的な白壁の町並みや、丘陵地に広がる茶畑など現在の
八女ならではの風景は失われていた可能性が高い。
いずれにせよ、多くの謎を残し、八女遷都論は歴史の中に消えた。
八女(福岡県)が日本の首都になっていたかもしれない。突拍子もない
冗談のようだが、実は太平洋戦争中に政府が検討していた歴史的事実だ。
「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと。当時の資料をひもとき
「八女遷都論」について調べてみた。
「八女遷都論」が明記されているのは、1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」だ。
内閣総理大臣直属の組織で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した
「企画院」が作成した。現在は、国立公文書館の「アジア歴史資料データベース」
で公開されている。
この文書は朝鮮、中国、東南アジアにおける権益確立を目指す「大東亜共栄圏」
建設を見据え、政治、経済、産業、文化、防衛などを含めた国のあり方について
方向性を示したもの。計画の対象は日本、朝鮮、台湾。遂行目標を「一応15年」としていた。
「首都」の項目では、候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府
(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。条件として、
全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない
▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など
計6項目を明示。福島町は条件をクリアしていたようだ。
極秘文書は現八女市出身の県職員が発見
首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、
外国公館などとしているが、「極力不要なる機能の集中を抑制する」とも記載。
「防空、耐火、耐震および美術上の見地において最も完全なる都市の造成に重点を
指向する」と目標を掲げており、あらたに計画都市を造ろうとしていたことがうかがえる。
極秘文書は1967年、福岡県立花町(現八女市)出身の県職員だった故松延茂さんが発見した。
松延さんは地域文芸誌「飛形」への寄稿で発見の経緯を振り返っている。当時、松延氏は
県の企画室企画主査として県総合開発計画の策定に当たっていた。その参考資料を集める
中で、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。
この「中央計画素案」策定から2年後に日本は敗戦。遷都案も消えた。松延氏は寄稿の中で、
矢部川の自然豊かな風情を表現した洋画家・青木繁の書簡の一節を紹介しながら思いを
語っている。「福島町中心地区が首都になっていたら、わが故郷の様相はどうなっていたことか。
時折、白昼夢にも似たまぼろしの首都を思い描いてみることを楽しみにしているが、
そのようなとき、青木繁の詩情が私の心をゆさぶるふるさとである」
もし、福島町に首都が置かれたら、現在、八女はどうなっていただろう。国会や中央省庁が
集まり、周辺も高層ビルが立ち並んでいるのではないか。人口も比べものにならないほど
増えていたはずだ。一方で、伝統的な白壁の町並みや、丘陵地に広がる茶畑など現在の
八女ならではの風景は失われていた可能性が高い。
いずれにせよ、多くの謎を残し、八女遷都論は歴史の中に消えた。