【歴史】日本国はいつ誕生したのか 天皇制につながる卑弥呼の統治 学研究所長に聞く★9

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0001キリストの復活は近い ★2018/03/27(火) 20:09:58.97ID:CAP_USER9
日本という国はいつ誕生したのか−。このテーマの議論は、研究者の間では「七五三論争」と呼ばれている。

「邪馬台国の女王、卑弥呼が統治した「3世紀」か、仁徳天皇ら倭の五王による巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、
そして天皇制が確立したとされる飛鳥時代の「7世紀」かで議論が分かれているからだ。

国内初の本格的な都、藤原宮(奈良県橿原市)や大宝律令という法律が整備された7世紀こそ「日本国成立」ともいわれるが、
邪馬台国の時代にはすでに女王が国を治め、中国王朝と外交関係を築き、国家といえる形が整っていた。(小畑三秋)

 ■「女王の都するところ」

 「飛鳥時代が国家の始まりともいわれるが、決してそうではない。日本国がいきなりできたのではなく、
卑弥呼の時代には原型ができていた」と指摘するのが、纒向(まきむく)学研究センターの寺沢薫所長だ。
 寺沢さんは邪馬台国の有力候補とされる纒向遺跡(同県桜井市)を調査し、弥生時代から古墳時代への変遷など、国家形成について研究している。

 同遺跡には、卑弥呼の墓説が根強い箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)をはじめ、国内最古級の前方後円墳が集中し、
邪馬台国論争の舞台だ。

遺跡中心部のJR桜井線・巻向駅近くで平成21年、東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の大型建物跡
(南北19メートル、東西12メートル)など4棟が見つかった。
卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、
邪馬台国中枢部の可能性が一気に高まった。

 ■「邪馬台国、女王の都するところなり」

 魏志倭人伝は、卑弥呼のいた場所についてこう記している。
 「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、そうではない。邪馬台国を含む倭国全体の女王。居住していたのが邪馬台国」と寺沢さん。
そのうえで、「纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政を行い、倭国の首都だった」と指摘する。

 纒向遺跡では、約2700個もの桃の種、香辛料に使われるバジル、ベニバナの花粉も出土。ベニバナは古代エジプトではミイラを巻いた布、
中国でも染料として使われた。桃は、仙人が暮らす中国の理想の地「桃源郷」を連想させる。バラエティーに富む発掘成果は、
中国との外交を通じてシルクロード文化を積極的に取り入れていたことを物語る。

  ■外交に長けた女王

 「汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬を与える」。魏志倭人伝は、239年に卑弥呼が中国・魏に使者を送り、
魏の皇帝が卑弥呼を親魏倭王に任命し金印を授けたと記す。今から1800年近く前、決して対等ではなかったが、
日本と中国で外交関係が築かれていたことがうかがえる。

卑弥呼は、倭国の統治に中国の威光を頼ろうとした。当時は三国志で知られる魏・呉・蜀がしのぎを削り、
魏の王・曹操や蜀の劉備玄徳ら英雄が覇を競った。卑弥呼が外交相手に選んだのは、中でも優位にあった魏だった。
 「卑弥呼の政権は、東アジア情勢を敏感に察知しながら中国と外交を展開した」と寺沢さんは話す。

 ■男子の王で戦乱

 倭人伝は、卑弥呼誕生の経緯についても詳しく述べている。
「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と記載。
寺沢さんは、卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。
これが、のちの天皇制へとつながっていった」と説く。

 そして飛鳥時代、中国から長年「倭国」と呼ばれていたのを、自ら「日本」と名乗るようになった。
太陽が昇る「日出する国」「日の本の国」として、中国をはじめとした東アジアの国家の一員であることを宣言したのだった。

http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n2.html
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n3.html
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n1.html

1スレの日時 2018/03/24(土) 13:38:12.97
前スレ https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1522115598/

0952名無しさん@1周年2018/03/28(水) 15:55:22.71ID:3u0RBVOw0
九州北部のヤマト(山門)という地名が何時しか倭人国そのものを指す言葉に変化していって、
畿内の朝廷もヤマトという呼称を受け入れて自称ようになったんだろうな。
好字を充てて、大いなる和国ってことで大和をヤマトと読ませるようになった。

0953名無しさん@1周年2018/03/28(水) 15:56:09.48ID:7FdKUR81O
>>947
日本はニホンて読むじゃん

0954名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:04:13.35ID:YN+OMjNv0
>>952
九州のヤマトの「ト」と畿内のヤマトの「ト」の発音が違うため整合性がない
さらに邪馬台国の台は畿内ヤマトをさす音と同じ
つまり音韻学上九州説は厳しい

0955名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:04:20.32ID:SIk+Pdr50
>>953
今はな
もう感じが入って来たのは遥か昔だからすっかり日本語の読みと化した
だけど7世紀時点でニホンと読んだかは定かではない
フリガナ振ってないから
日本書紀なんかも当時何と読んだかは定説がない
ちなみに漢文で書かれていた

0956名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:09:13.12ID:zJLNt8+F0
日本ってことなら大化の改新以降だろうね
ヤマトということなら太陽信仰の一族が大王となって以降かな
原型ということなら縄文人がブイブイ言わせてた時期までさかのぼってもいい

0957名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:10:48.21ID:Y2de8/4o0
福岡県みやま市山門
小倉北区山門
山口県宇部市山門

0958名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:14:17.63ID:411/LPYoO
卑弥呼系と今の皇室は別系統だろな

0959名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:14:17.91ID:fXmt7eyG0
>>954
それなら九州のヤマトはヤマタイから変化した可能性もあるな

0960名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:20:03.76ID:fXmt7eyG0
正直交通の便も悪くて気候も寒暖の激しいあんな盆地に邪馬台国があったとは信じられない
大陸に使者を出すくらいに栄えていたなら当然大陸と海の便が良好だった場所になるわけで
貿易も盛んになるから富も集まっていたはずだ
大和盆地では海上交通が不便過ぎる

0961名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:23:21.47ID:4dfDMXUS0
>>6
中の人の有様はどうでもいんですよ

0962名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:23:40.27ID:zJLNt8+F0
>>960
今の地理地形で考えればそうだな

0963名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:28:31.20ID:g1wsHcf20
芋ころ縄文人は大陸の雅な天皇の御姿に目が眩んだのじゃ

0964名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:32:02.29ID:Rz6sPCS10
ビジネスの為に、考古学を悪用しているクズ。

0965名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:38:09.12ID:Rz6sPCS10
畿内説の言い分は、
マキムクが発展してたとか、
土器が九州で見つかったとか、
全然魏志倭人伝の記述と関係ないんだが。
寺沢は国民をバカにしすぎている。

0966名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:43:16.58ID:2Sml/OkZ0
>この上表文で一番驚くのは、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれてるものが、
>見受けられるという。 例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも

>見られる字句である。 この上表文を書いた「倭の王朝」官人の漢文の教養の深さが窺われる。
>歴史好きの間でも4〜5世紀に倭人たちと云えば、文字も知らない未開人の様に囚われがちだが。


倭王武の上表文

倭の五王の最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。 昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら
甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
渡りて海北を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)

倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、
対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っているかのように
誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。
この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが
見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも
見られる字句である。この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。
「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定される。

0967名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:44:58.97ID:xrXSUcPI0
>>965
邪馬台国論争の根幹は当時の倭国の盟主の国がどこにあったかだ
邪馬台国は倭国の盟主の国
畿内ヤマトは日本列島の盟主の国
畿内ヤマトが北部九州まで来ている以上、倭国の盟主の国=日本列島の盟主の国

こんな単純な理屈もわからんのか?

0968名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:47:48.91ID:Rz6sPCS10
全然関係ない。

0969名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:49:41.64ID:Rz6sPCS10
今の日本もチャイナの陶器ばかりだが、
それが日本がチャイナの属国の証か?
バカが。

0970名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:51:34.55ID:ZHXibcNW0
天皇制と卑弥呼は全然関係ないじゃないか勉強しなさい

0971名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:53:28.25ID:xrXSUcPI0
>>968
小学生レベルの行程パズルやってるお前がわからんでもどうでもいいわ
行程パズルやって不一致を一致と強弁しようが、そこにあるのは倭国の盟主でない雑魚の国
邪馬台国論争の根幹を否定して邪馬台国は九州だと喚いてるだけ

0972名無しさん@1周年2018/03/28(水) 16:57:25.35ID:xrXSUcPI0
>>969
こうやって考古学知識ゼロのやつがデタラメの考古学解釈を捏造し土器出土は無意味と喚いてるわけだ
九州説のレベルを象徴するレスだな
まあこういうバカは放っておこう

0973名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:00:41.01ID:Rz6sPCS10
江田船山と稲荷山の鉄剣、
コレによって雄略=大和の力が日本全国、
九州南部にも及んでいた事が確定している。
中央に出仕するシステムも既にあった。
それが倭の五王の一人として朝貢した。
つまり、北部九州をも既に支配していた事になる。
紀元413年には、既に大和が九州を支配していたと言うことだ。
卑弥呼の時代は紀元248年165年も前の遠い時代の話だよ。

0974名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:01:17.27ID:S4X/X9DK0
新羅国こと朴氏斯蘆の時代のはなしだが天日槍が阿加流比売神という逃げた女房を
追い掛け回すため弟の知古に王位継承権を譲渡してまで遠路遥々お越しやす♪で
敦賀荒らしのストーカーとかいう異名を誇るほどの大馬鹿者っぷり。

日本に聖皇(同祖本家?)が住むと嘘も方便で若狭国と但馬国の豪族となったり
その末裔が丹波国と近江国の豪族の気長宿禰王に嫁がせて高向自治国の勢力に匹敵
する規模の北近畿連合が成立したわけだが息長帯比売命と虚空津比売?豊姫?と
息長日子王の3姉弟の功罪ねぇ。

卑弥呼と台与が存在したとされる皆既日食の年に実際に居合わせたのは神功皇后こと
息長帯比売命と誉田別命の乳母こと虚空津比売のはずだがどう考えてもこの姉妹は
同一人物であり邪馬台国とは福岡県筑紫橿日宮のはなしだろ。

0975名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:01:33.21ID:Rz6sPCS10
>>971
>>972
考古学の知識ゼロはテメーです。

0976名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:01:47.76ID:2Sml/OkZ0
銅鐸文化の消滅の意味するもの

加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸などは、やはり古い形式のもので、弥生中期後半(紀元前2〜1世紀頃)
に製作されたものとされています。誰もが古代2・3世紀の日本は、銅剣銅鉾文化圏と銅鐸文化圏に
大きく分かれていたことを、学校の歴史の時間に習ったことがあると思います。

 ところが、西暦300年頃、近畿圏を中心とした銅鐸文化が突然消滅して、以後前方後円墳を
中心とした古墳時代に移行してしまうのです。

 これは一体、何を意味しているのでしょうか。

北九州を中心とした当時の墳墓からは、いわゆる三種の神器と言われる剣・鏡・玉がセットで多く出土しており、
それを継承する形で、近畿地方では、銅鐸文化が滅んだあと 古墳時代が始まっています。
そして現在の皇室も三種の神器を引き継いでいるわけです。古墳時代には副葬品として、特に鏡が目立ちます。

このことは、自然に考えれば、300年頃、九州勢力の一部が東征して銅鐸文化を滅ぼし、
古墳時代を始めたと考えられ、私もそうに違いないと思います。いやそうとしか、考えられないのです。

古事記や日本書紀に記されている神武天皇の東征は、この時のことがモデルになったのでしょう。
そうなると、この西暦300年頃というのは、日本古代史上、最も重要な革新的な時期だったといえるのです。
その少し前までは、九州地域を含めて邪馬台国の女王・壱与が倭国を統治していたのです。

0977名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:03:07.05ID:l9vBFCC/0
卑弥呼は火巫女もしくは日巫女、チャンコロの他国への蔑称主義がこんなおかしな漢字使って表現してる

0978名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:03:12.08ID:FAT2h+zI0
>>967
時代
邪馬台国→ヤマト王権

文化
北九州吉備→近畿

九州→近畿でなんにもおかしくない

0979名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:04:39.32ID:eynTJ/Eq0
>>735

方形周溝墓なんて杉並区からも発見されてます
http://tokyosuginami.blog.shinobi.jp/大宮/大宮遺跡

0980名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:05:45.98ID:Z8DtTk6X0
倭人伝に記載している魏国と交流のある倭国の三十余ヶ国の内の二十ヶ国とは以下のとおり
福岡県・・福岡市西区、福岡市博多区、福岡市南区、糸島市(伊都国、志摩国)
     宇美町、宮若市、行橋市、筑紫野市、嘉麻市 (10箇所)
佐賀県・・多久市、武雄市、唐津市、(3箇所)
長崎県・・対馬市、島原市、壱岐市(3箇所)
熊本県・・菊陽町、熊本市、阿蘇市(3箇所)
大分県・・日田市、宇佐市、大分市(3箇所)
残りの十余国も九州内にあるのは間違いない

0981名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:09:28.63ID:Gcagdkus0
銅鐸についていつも勘違いしてる人がいるようだがこれも間違い

銅鐸は各地域で消滅時期にバラツキがある
特に大和国では大型墳墓や鏡の副葬が始まるよりも200年は早くなくなっている
良く勘違いしてる人が言うような「銅鐸が鏡に滅ぼされた」と言うような状況にはなってない
また九州から畿内に広まるような文化的な伝播は弥生時代を通してみられないこともそのような物語が存在しないことを示している

銅鐸の消滅は大和国内部での独自の統合過程を示しているもので外部からの侵略などと言う状況は想定できない

0982名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:11:50.63ID:2Sml/OkZ0
銅鐸と加茂

大場氏のご意見はカモ・ミワの両族と銅鐸が深く繋がっているということのようです。
そしてその地名・出雲系神社と銅鐸の出土地を照合しています。 たしかに思った通り符合していますが、
銅鐸出土地のすべてと合う筈も無く埋設場所のパターンの一つでしかないようです。
そもそも「カモ」「ミワ」と言う言葉はなんなんだ?という疑問に突き当たります。
カモ・・・、確かに地形的には加茂の地名地はそんな所です。

0983名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:13:01.50ID:FAT2h+zI0
>>981
弥生土器の広がりも九州と畿内の交流も絶対あるよw

0984名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:14:27.33ID:8eqB6a5R0
>>914
違う

0985名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:15:36.30ID:t2/q59GH0
九州で作られた銅鐸が出雲や畿内で出土してますね。

0986名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:18:59.66ID:Gcagdkus0
そもそも九州には弥生時代を通じて400年間、前方後円墳などの大型墳墓などは発展していない

「銅鐸がなくなり前方後円墳が現れた」のが九州の影響だと言うのなら、
まず九州で現れるのが当然だが「畿内に先に現れて九州に持ち込まれている」形となっている

普通に考えて話の筋が根本から成り立っていないのが分かる

0987名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:19:02.02ID:t2/q59GH0
>>973
これインチキなんだよな
欠字が有ったり漢音と呉音を混ぜて読んだり読み方も強引だし
仮に読めたとしてもワカタケルなんて個人名とも限らない
若大将みたいな意味かもしれんし。

0988名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:19:03.77ID:Ltq0EANn0
「日本という国はいつ誕生したのか」というスレで、なぜ「邪馬台国の位置」論争になるのか?

0989名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:19:46.74ID:mruLlhEv0
>>965
馬鹿にしていると被害妄想してるのは九州論者のど素人だけだよ(苦笑)

0990名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:20:54.34ID:t2/q59GH0
畿内で大型墳墓が発達したのは九州からの征服者が圧倒的武力で先住民をこき使う事ができたから。

0991名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:21:50.48ID:fXmt7eyG0
>>980
末盧国 松浦市もじゃねーの?

0992名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:23:57.23ID:t2/q59GH0
>>988
日本国が誕生したのは701年
この年、九州年号が終わり大和朝廷が大宝を建元し
評から郡に代わっている。

0993名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:24:14.05ID:C64OXeLW0
>>987
読み方はどうあれ、出土しちゃったからには仕方がない

0994名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:24:54.92ID:Gcagdkus0
福田型銅鐸はむしろ九州の銅矛等の文化圏の中に銅鐸文化を持ち込んで作られた形
九州が西日本の銅鐸の影響を受けて用いだした独自の銅鐸と考えられる

この銅鐸は九州独特の物で畿内をはじめとした西日本各地の銅鐸とは別系統の物なのが分かっている
九州の中心性を示すようなものではない

0995名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:25:03.63ID:xrXSUcPI0
>>988
邪馬台国が畿内だと広域政権という意味になる
その時点で日本列島に国家が誕生してることになる

0996名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:25:37.24ID:t2/q59GH0
行程パズルは終わった
卑弥呼の都は伊都国(糸島市)だ。

0997名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:26:36.60ID:FAT2h+zI0
>>986
前方後円墳の時代は畿内になったんだよ
時代わかってんのか?

0998名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:27:01.93ID:t2/q59GH0
>>993
読み方が違えば出土品の意味も違ってくる。

0999名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:27:32.33ID:Rz6sPCS10
インチキはテメーだバカ。

1000名無しさん@1周年2018/03/28(水) 17:28:13.25ID:2Sml/OkZ0
1000 終わりか

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