展示した「牛頭天王」の像や軸を紹介する宝光井英彦さん=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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「祇園神曼荼羅」に描かれた牛頭天王(上)と頗梨采女(左下)、八王子=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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「祇園牛頭天王荒魂図」。牛頭天王が素戔嗚尊と習合しているのが分かる=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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かつては日本各地で広く信仰されたにもかかわらず、現在は歴史的に縁の深い祇園祭の関係者以外には、ほとんど知られなくなった神「牛頭天王(ごずてんのう)」。「忘れられた神」の像や絵画などを、祇園祭を例祭とする八坂神社(京都市東山区)の旧神官家の子孫、宝光井(ほうこうい)英彦弁護士(42)=同市=が収集している。宝光井さんは「『誰も知らない神』になってしまった存在を、少しでも多くの人に知ってもらいたい」と願う。【矢倉健次】
牛頭天王は頭上に牛の首を頂く「憤怒(ふんぬ)相」の厄よけの神。渡来人がもたらしたとする説が有力だが、書物に名が現れるのは平安時代の12世紀中ごろという。鎌倉時代の13世紀ごろからは、日本の神話に登場する素戔嗚尊(すさのおのみこと)と混然一体となり、祇園社(江戸時代末期までの八坂神社の名称)でも習合信仰されるようになった。江戸時代には、祇園社が数千社をまとめる最大の拠点になったという。
牛頭天王の妻頗梨采女(はりさいにょ)は素戔嗚尊の妻櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、子の八王子は素戔嗚尊の8人の子どもたちを指す八柱御子神(やはしらのみこがみ)と習合。祇園祭の際、それぞれが3基の神輿(みこし)のご神体として渡御(とぎょ)していた。天王山(大山崎町)、八王子市、天王洲アイル(いずれも東京都)といった地名も、祭られていた場所に由来する。
しかし、牛頭天王は釈迦(しゃか)が説法をしたインドの僧坊・祇園精舎の守護神という説が広まったこともあり、明治時代になると政府の神仏分離政策に従い、神社から急激に排除された。ほとんどの像は川に流されるなどされ、祭られ続けたのは主に政府の目が届かない場所にある、ごく一部の寺社のみだったという。
八坂神社でも祭神は素戔嗚尊に「一本化」されたが、牛頭天王の旅の途中で一夜の宿を貸し、手厚くもてなしたと伝わる蘇民将来(そみんしょうらい)を祭る疫神社は、境内の摂社として残された。「蘇民将来子孫也」と書いた護符を持てば疫病から守ることを牛頭天王が約束したとされたことから、祇園祭では授与される厄よけ粽(ちまき)の多くにその文言が記される。一部の山鉾(やまほこ)町会所では、今も牛頭天王の軸を祭る。
宝光井さんは、祇園社で三院と呼ばれた最高位の神官家の一つ「宝光院家」の子孫に当たる。「今は一族に神職はいないが、近代化以前の祇園祭の神々の姿を目にすることで、かつての日本人が思い描いていた祇園祭の神々の信仰に近づきたい」と、骨董(こっとう)市やネットオークションで牛頭天王の図像を集めた。
11月22〜24日には、旧公家・山科家の旧邸「源鳳院」(京都市左京区)で開催された講演会「祇園祭の諸相」と特別展で、牛頭天王の4体の像や掛け軸などが公開された。
最も大きい高さ90センチの立像は神将形で平安期の様式を有する。高さ20センチと25センチの小さな坐像(ざぞう)は明王形で斧(おの)を持つという、中世以降の典型的な姿という。「祇園神曼荼羅(まんだら)」には、牛頭天王と妻子が江戸時代の本殿の祭神と同じ配置で描かれており、「祇園牛頭天王荒魂図」は素戔嗚尊と習合した姿が見られる。
近年は各地で牛頭天王の仏像の再発見が相次いでおり、コロナ禍の退散を願って石像を建立した寺院もある。復活の気配が感じられる中、宝光井さんは収集品を再度、公開する機会があることを期待している。
毎日新聞 2020年12月15日
https://mainichi.jp/articles/20201215/ddl/k26/040/303000c?inb=ra
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「祇園神曼荼羅」に描かれた牛頭天王(上)と頗梨采女(左下)、八王子=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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「祇園牛頭天王荒魂図」。牛頭天王が素戔嗚尊と習合しているのが分かる=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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かつては日本各地で広く信仰されたにもかかわらず、現在は歴史的に縁の深い祇園祭の関係者以外には、ほとんど知られなくなった神「牛頭天王(ごずてんのう)」。「忘れられた神」の像や絵画などを、祇園祭を例祭とする八坂神社(京都市東山区)の旧神官家の子孫、宝光井(ほうこうい)英彦弁護士(42)=同市=が収集している。宝光井さんは「『誰も知らない神』になってしまった存在を、少しでも多くの人に知ってもらいたい」と願う。【矢倉健次】
牛頭天王は頭上に牛の首を頂く「憤怒(ふんぬ)相」の厄よけの神。渡来人がもたらしたとする説が有力だが、書物に名が現れるのは平安時代の12世紀中ごろという。鎌倉時代の13世紀ごろからは、日本の神話に登場する素戔嗚尊(すさのおのみこと)と混然一体となり、祇園社(江戸時代末期までの八坂神社の名称)でも習合信仰されるようになった。江戸時代には、祇園社が数千社をまとめる最大の拠点になったという。
牛頭天王の妻頗梨采女(はりさいにょ)は素戔嗚尊の妻櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、子の八王子は素戔嗚尊の8人の子どもたちを指す八柱御子神(やはしらのみこがみ)と習合。祇園祭の際、それぞれが3基の神輿(みこし)のご神体として渡御(とぎょ)していた。天王山(大山崎町)、八王子市、天王洲アイル(いずれも東京都)といった地名も、祭られていた場所に由来する。
しかし、牛頭天王は釈迦(しゃか)が説法をしたインドの僧坊・祇園精舎の守護神という説が広まったこともあり、明治時代になると政府の神仏分離政策に従い、神社から急激に排除された。ほとんどの像は川に流されるなどされ、祭られ続けたのは主に政府の目が届かない場所にある、ごく一部の寺社のみだったという。
八坂神社でも祭神は素戔嗚尊に「一本化」されたが、牛頭天王の旅の途中で一夜の宿を貸し、手厚くもてなしたと伝わる蘇民将来(そみんしょうらい)を祭る疫神社は、境内の摂社として残された。「蘇民将来子孫也」と書いた護符を持てば疫病から守ることを牛頭天王が約束したとされたことから、祇園祭では授与される厄よけ粽(ちまき)の多くにその文言が記される。一部の山鉾(やまほこ)町会所では、今も牛頭天王の軸を祭る。
宝光井さんは、祇園社で三院と呼ばれた最高位の神官家の一つ「宝光院家」の子孫に当たる。「今は一族に神職はいないが、近代化以前の祇園祭の神々の姿を目にすることで、かつての日本人が思い描いていた祇園祭の神々の信仰に近づきたい」と、骨董(こっとう)市やネットオークションで牛頭天王の図像を集めた。
11月22〜24日には、旧公家・山科家の旧邸「源鳳院」(京都市左京区)で開催された講演会「祇園祭の諸相」と特別展で、牛頭天王の4体の像や掛け軸などが公開された。
最も大きい高さ90センチの立像は神将形で平安期の様式を有する。高さ20センチと25センチの小さな坐像(ざぞう)は明王形で斧(おの)を持つという、中世以降の典型的な姿という。「祇園神曼荼羅(まんだら)」には、牛頭天王と妻子が江戸時代の本殿の祭神と同じ配置で描かれており、「祇園牛頭天王荒魂図」は素戔嗚尊と習合した姿が見られる。
近年は各地で牛頭天王の仏像の再発見が相次いでおり、コロナ禍の退散を願って石像を建立した寺院もある。復活の気配が感じられる中、宝光井さんは収集品を再度、公開する機会があることを期待している。
毎日新聞 2020年12月15日
https://mainichi.jp/articles/20201215/ddl/k26/040/303000c?inb=ra