【京都】渡来人がもたらした? 忘れられた神、「牛頭天王」に光を 祇園祭ゆかりの旧神官家子孫、像など収集 [樽悶★]
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展示した「牛頭天王」の像や軸を紹介する宝光井英彦さん=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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「祇園神曼荼羅」に描かれた牛頭天王(上)と頗梨采女(左下)、八王子=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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「祇園牛頭天王荒魂図」。牛頭天王が素戔嗚尊と習合しているのが分かる=京都市左京区の源鳳院で、矢倉健次撮影
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かつては日本各地で広く信仰されたにもかかわらず、現在は歴史的に縁の深い祇園祭の関係者以外には、ほとんど知られなくなった神「牛頭天王(ごずてんのう)」。「忘れられた神」の像や絵画などを、祇園祭を例祭とする八坂神社(京都市東山区)の旧神官家の子孫、宝光井(ほうこうい)英彦弁護士(42)=同市=が収集している。宝光井さんは「『誰も知らない神』になってしまった存在を、少しでも多くの人に知ってもらいたい」と願う。【矢倉健次】
牛頭天王は頭上に牛の首を頂く「憤怒(ふんぬ)相」の厄よけの神。渡来人がもたらしたとする説が有力だが、書物に名が現れるのは平安時代の12世紀中ごろという。鎌倉時代の13世紀ごろからは、日本の神話に登場する素戔嗚尊(すさのおのみこと)と混然一体となり、祇園社(江戸時代末期までの八坂神社の名称)でも習合信仰されるようになった。江戸時代には、祇園社が数千社をまとめる最大の拠点になったという。
牛頭天王の妻頗梨采女(はりさいにょ)は素戔嗚尊の妻櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、子の八王子は素戔嗚尊の8人の子どもたちを指す八柱御子神(やはしらのみこがみ)と習合。祇園祭の際、それぞれが3基の神輿(みこし)のご神体として渡御(とぎょ)していた。天王山(大山崎町)、八王子市、天王洲アイル(いずれも東京都)といった地名も、祭られていた場所に由来する。
しかし、牛頭天王は釈迦(しゃか)が説法をしたインドの僧坊・祇園精舎の守護神という説が広まったこともあり、明治時代になると政府の神仏分離政策に従い、神社から急激に排除された。ほとんどの像は川に流されるなどされ、祭られ続けたのは主に政府の目が届かない場所にある、ごく一部の寺社のみだったという。
八坂神社でも祭神は素戔嗚尊に「一本化」されたが、牛頭天王の旅の途中で一夜の宿を貸し、手厚くもてなしたと伝わる蘇民将来(そみんしょうらい)を祭る疫神社は、境内の摂社として残された。「蘇民将来子孫也」と書いた護符を持てば疫病から守ることを牛頭天王が約束したとされたことから、祇園祭では授与される厄よけ粽(ちまき)の多くにその文言が記される。一部の山鉾(やまほこ)町会所では、今も牛頭天王の軸を祭る。
宝光井さんは、祇園社で三院と呼ばれた最高位の神官家の一つ「宝光院家」の子孫に当たる。「今は一族に神職はいないが、近代化以前の祇園祭の神々の姿を目にすることで、かつての日本人が思い描いていた祇園祭の神々の信仰に近づきたい」と、骨董(こっとう)市やネットオークションで牛頭天王の図像を集めた。
11月22〜24日には、旧公家・山科家の旧邸「源鳳院」(京都市左京区)で開催された講演会「祇園祭の諸相」と特別展で、牛頭天王の4体の像や掛け軸などが公開された。
最も大きい高さ90センチの立像は神将形で平安期の様式を有する。高さ20センチと25センチの小さな坐像(ざぞう)は明王形で斧(おの)を持つという、中世以降の典型的な姿という。「祇園神曼荼羅(まんだら)」には、牛頭天王と妻子が江戸時代の本殿の祭神と同じ配置で描かれており、「祇園牛頭天王荒魂図」は素戔嗚尊と習合した姿が見られる。
近年は各地で牛頭天王の仏像の再発見が相次いでおり、コロナ禍の退散を願って石像を建立した寺院もある。復活の気配が感じられる中、宝光井さんは収集品を再度、公開する機会があることを期待している。
毎日新聞 2020年12月15日
https://mainichi.jp/articles/20201215/ddl/k26/040/303000c?inb=ra >>299
スレ間違えたでしょ?w
たぶん、同じく二つのスレ見てるからw >>222
キリスト教は古代ローマで流行ってたミトラ教と混同させて布教したらしい
結果としてミトラ教はキリスト教に取り込まれて滅んだ
インドで一度隆盛した仏教が滅んだのは度を超えた神仏習合に対する土着民の反発があったからじゃないかと思ってる
日本の廃仏毀釈もその類なんじゃないかな
あまり語られないけど神仏習合は融和的イメージとは全く別の側面があるような気がする >>312
んだよ人の話し聞いてねーのかよ!?
ってぶちきれてその場で大虐殺したんだっけ
人殺しも大虐殺もやってる聖人だな >>313
しゆう
>>310
偶然一致して紛らわしいな、というお話でした(トーマス調) >>317
これでもダメなほど、後代には人心退廃した
モレク崇拝が人身御供を繰り返した悪魔教でも、認可できる? >>316
神道は基本的に怨霊を祀ること
神事は怨霊慰撫のために存在する
神仏習合は、仏への念仏をそのまま怨霊慰撫にすり替えるために行われた
仏を敬うことがそのまま神事になるようになっている
蘇我と物部の崇仏戦争は別に宗教戦争などではなく、日本古来の製鉄勢力と中国から仏教とともに仏具などの道具及び鉱山技術を手に入れた勢力の戦争だった
だから物部氏が負けても神道がなくなったりするわけではなかった もう日本文化は東北から伝来したぐらい言ってもええんちゃう?w >>320
荒唐無稽な社伝だな。飛鳥時代の656年に何故都から遠く離れた
山背国愛宕郡にしかも高句麗からの来日副使が創建するんだよ?
八坂神社のある東山区一帯って高句麗からの渡来人の入植地だったかな? >>324
幕末から明治の初めに成立した説です。祇園社の坊主から八坂神社の神職に転身した人が書かれたのが初出です >>322
>蘇我と物部の崇仏戦争は・・・古来の製鉄勢力と中国から・・・仏具などの
>道具及び鉱山技術を手に入れた勢力の戦・・・・
理解不可。蘇我氏が中国からの仏教&鉱山技術受容勢力?百済からでなく?
何故在来製鉄勢力と舶来鉱山技術受容勢力が抗争しないといけないのか?
韓鍛治技術なら6世紀以前に既に伝来していただろ? ウシはおとなしくて農耕の役にもたち、乳も肉も毛皮も重用された
ウシと読む文字に大人もある
しかし姿形は恐ろしいから憂しでもあったという
その最たる神が艮の金神、スサノオだった
そしてやはりウシー宇治川を挟んで貴船神社があり、貴船の舌家は牛鬼だった
そして貴船は雨乞いの神で雨師神と呼ばれたのである >>324
古事記の前の中華王朝の史は焚書によりなかったことになってるからな >>327
丑の刻参りか?
宇治に橋姫神社あるで。 ネトウヨって、稲作とか漢字が、こだい韓国の方からきた渡来人におしえてもらったって知らないのw
引きこもりネトウヨニート、アニヲタのコドオジだから学校で習ってないのかw >>324
飛鳥周辺は百済などの渡来人がいっぱいいて、地方にいっぱい飛ばされてる。京都は渡来人が
入植し開拓してた。下鴨や上賀茂などの鴨族は出雲族だから土着系だけど。
八坂氏などは渡来系。 だから、下鴨神社とか広隆寺とかは都ができる前からあるよ。 >>329
橋姫は愛し姫が端姫になった
貴船の高龗神はミズハノメでもあるとされ水の端でもある
水の端とは彼岸と此岸の境であり、井戸の淵でもある
能の鉄輪に描かれた橋姫は夫に裏切られた鬼女であるが
本当の姿は夫神と引き裂かれ二度と会えない宇治川の彼岸と此岸に隔てられた女神 >>331
平安京は結局秦氏が開拓した土地を取り上げただけだしね >>316
事実上、神仏習合を最初にやった人は誰か?
それは間違いなく聖徳太子でしょ
古代からのアニミズムと天皇家の祖霊崇拝を
「神道」として純化させたのは明治維新 >>320
>>331氏も書いてるけど京都は出雲族が
早くから棲みついてた
スサノオ神を祀った古い社がぽつぽつある
出雲族は縄文人と弥生人が上手く融合してて
ここに天孫系の入植があって大和政権が成立
したと考えられる >>330
大韓民国1948-
古代の南朝鮮とは別の民族だからな ムーで丑年の特集に牛頭大王(天王)の像や話が載ってたな >>339
神農も知らないからお前の民族は馬鹿にされんだよ >>1
八王子ってスサノオの子である8人の王子って意味だったのか?
東京の八王子市も、その謂れがあるわけ? >>343
八王子神社が各地に建てられたからね
王子は童子でもあり基本的に怨霊、疫病神 >>342
南朝鮮と日本に来てたのは海洋術に優れた呉人。漢民族を避けて支配地を伸ばすため術 >>1
ミノタウロスとインドの神どっちが由来なんだろうや 祇園さんは知らないけど他の素戔嗚祭ってる神社は古いんじゃないかに同意
東日本大震災の時に国津神の神社が助かった
素戔嗚の神社は津波の被害なかったという研究結果がある
東京工業大学大学院のグループの論文「東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究」
韓国が絡むレスは全部最初に答えありきのものばかりで本当にダメだな
歴史に韓国人は向いてないのが分かる >>337
スサノオ神を祀った古い社がぽつぽつ?
例えば京都市内の何々社のことなの?
出雲族は縄文人と弥生人が上手く融合?
出雲族が交雑弥生人との根拠は何なの? 牛頭と馬頭は女神転生で知った。
前鬼と後鬼は永井豪の手天童子で知った。 >>20
それなら良いことでは?
パヨパヨは伝統を破壊したくて仕方無いのだから >>351
なんか聞き方がムカつくから教えてあげない >>98
文明の必須条件の一つが「文字」だからダウト 我々日本人が現代において、一般的な神道と認識している神道、つまり神社本庁傘下の神社の神道は日本の神仏混淆の伝統宗教に朝鮮朱子学が背乗りしてできた。
江戸時代半ばにできた新興宗教。
大義名分論を強調した李退渓の学説は、その系統を嗣ぐ姜(カンハン)という学者が、
16世紀末に日本の捕虜となって日本に連れて行かれ、後に京都に招かれて藤原惺窩と交流し、強い影響をあたえた。
藤原惺窩によって取り入れられた朱子学は林羅山らによって江戸時代の公認の学問とされることになった。
そして儒教側からも「儒家神道」と呼ばれる合体論が多く生まれたのである。江戸初期の朱子学者である藤原惺窩にはじまり、その門人の林羅山によって、
神道と儒教の一致を説く思想が積極的に提唱された。羅山はその著『本朝神社考』の序文において、
従来の本地垂迹説や神仏混淆説を批判し、「日本が神国であり、神武天皇が天神(あまつかみ)のあとを継ぎ、その道を広めた。
これがすなわち神道であり、王道である」とし、この王道こそはシナの聖賢の道と同一のものであることを唱えた。
この「神道即王道」の観念によって神儒一致論を主張した羅山は、その考えを『神道伝授』において一歩進め、自らその神道説を「理当心地神道」と名づけたのである。
http://www.heisei-shin.com/writings_box/religion_page/religion_26_3.html 合祀令
明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は熊野に壊滅的なまでのダメージを与えました。
明治政府は記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排滅することによって神道の純化を狙いました。
熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、合祀の対象となりやすかったのだと思います。
村の小さな神社が廃止されただけでなく、歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある熊野古道「中辺路」の王子社までもが合祀され、廃社となりました(田辺から本宮までの「中辺路」で合祀滅却されずに済んだ王子は、なんと滝尻王子と八上王子の2社のみ)。
五体王子として格別の尊崇を受けた稲葉根王子や発心門王子でさえ合祀されたのです。小さな神社や王子社のほとんどが合祀され、神社林は伐採されました。
神社合祀の嵐が熊野に吹き荒れるなか、神社合祀反対運動に立ち上がったのが南方熊楠です。この「神社合祀に関する意見」もその運動の最中に書かれた文章です。
http://www.minakatella.net/letters/gosiiken0.html 明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。これが「神仏分離」政策です。掲載資料は、3月28日に発せられた「神仏判然令」と言われるものを「太政類典」という資料に採録したものです。神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。
http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m01_1868_03.html 「儒家神道、国家神道は江戸時代に伝統的な日本人の宗教が朝鮮朱子学に背のりされてできた準新興宗教、靖国は新興宗教」。
今の神道と江戸中期までの日本の伝統的な宗教との違いは、
キリスト教とイスラム教以上ぐらいある。
祭神が変わっているからだ。記紀神話の天皇につながる神以外祭神変更されたんだよ。
合祀令で検索!
神仏判然令で検索!
大小神社取調書についても勉強しろよ。
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f13-3.pdf
そして新興宗教の靖国とか作られた。
それぞれの神社の古地図をみろ。名前も祭神も違う。あなたの知識は改変後の神道を古来の神道とする捏造されたものでしかない。
品川神社が牛頭天王だった話。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000010700/hpg000010623.htm 神田明神に平将門が居なかった話。
明治七年(1874)、明治天皇の行幸が決定。
すると、明治政府が天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られている事を問題視。
この事により将門公が御祭神から外されてしまう。
代わりに少彦名命が茨城県の「大洗磯前神社」から勧請される。
以後、長年、将門公の御神霊は境内摂社に遷されたままとなっていた。
http://www.news-postseven.com/archives/20121228_162646.html もともと、神道は自然の脅威を恵みにかえるため象徴的自然物(山とか太陽とか)を祀ったアニミズム。
この延長で祟りそうな人(平将門や菅原道真とか)を祀った。
中世には仏教と習合。
江戸中期以降、神道は朝鮮朱子学ベースに再編された。
結果、必然的に徳の高い偉い人が神になることになった。
そして、明治には廃仏毀釈と同時に天皇陛下につながらないアマテラス系でないアニミズムの神さまは合祀または廃祀。
古代神道と今の神道は別物w 神社合祀令
明治の神仏分離令と神社合祀令は熊野に深い傷跡を残しました。
とくに明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は熊野に壊滅的なまでのダメージを与えました。
明治政府は記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排滅することによって神道の純化を狙いました。
熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、合祀の対象となりやすかったのでしょう。
村の小さな神社が廃止されただけでなく、歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある熊野古道「中辺路」の王子社までもが合祀され、廃社となりました
(田辺から本宮まで二十数社あった王子社で廃社にならずに済んだのは、なんと、八上王子と滝尻王子のみ)。
五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた稲葉根王子や発心門王子でさえ合祀されたのです。小さな神社や王子社のほとんどが合祀され、神社林は伐採されました。
神社合祀の嵐が熊野に吹き荒れるなか、神社合祀反対運動に立ち上がったのが南方熊楠です。
南方熊楠は下に示す8つの項目を理由に挙げて神社合祀に反対しました。
1 神社合祀は敬神の念を減殺する
2 神社合祀は民の和融を妨ぐ
3 神社合祀は地方を衰微せしむ
4 神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害する
5 神社合祀は愛国心を損ずる
6 神社合祀は土地の治安と利益に大害あり
7 神社合祀は史蹟と古伝を滅却す
8 神社合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す
しかしながら熊楠の奮闘もむなしく、神社合祀令により熊野(和歌山県・三重県)の神社のおよそ9割が滅却され、神社林が伐採されていまいました。
http://www.mikumano.net/keyword/jinjagosi.html 神社合祀に関する意見 -南方熊楠より抜粋 現代語訳
合祀先の神社については歴史ある神社よりも役所に近い神社や樹木の少ない神社が優遇され、
樹木多き神社は小役人が伐採した利益(当時巨木は高値で売れた)をかすめとるため住民の反対があっても握りつぶされ、
ほぼ強制的に取り潰された。
酷いところではよそから派遣されてきた神主が「自宅を建てる」などの名目で老木をことごとく狩り尽くす。
伐採されるところを見て泣く氏子に対し「桑畑にした方が儲かる」などと言い放つ始末。
歴史ある神社が取り潰され、その土地の有力者ゆかりの何の歴史もない神社が優遇されることも日常茶飯事である。
合祀を拒否した地区の住民は「全員監獄に入れる」などの脅しを受ける。
最も甚だしきは紀州近野村である。神社の杜を伐採し利益を得るために2,3人の村民と役人が結託し価値のない禿山に突如「金毘羅神社」なる何の由緒もない神社を造立した。
そして付近の1000年以上歴史ある神社6つを維持困難と偽って報告し、すべてその金毘羅神社に合祀する。
しかもこの神社の神職として連れて来られた男は元は荷持人足で、一昨年の冬に妻の首を絞め殺したならず者である。
こうして役人どもが私利私欲のために神社の樹木を伐採した結果、山は禿山となり毎年のように崩れ、川は溢れ災害が頻発している。
口では愛国心を唱えながら、一方ではこのように伝統文化を破壊するのはまさに矛盾である。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/525_47860.html
調べたら、今は近野村の金比羅神社は近野神社に改名し、近隣の神仏習合の社を合祀しまくっている。
由緒が笑える。
合祀前の由緒については『中右記』や、後鳥羽院熊野参詣の『御幸記』などその他でその片鱗を知るのみで、合祀となった各社については今は全く知るよしもない。
http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=7031 鎌倉の廃仏毀釈
神仏分離自体は江戸時代から藩によっては行われており、単純に「分離」するだけであればあまり問題はなく、
1868年(慶応4年)の神仏分離令も仏教の破壊を意図したものではありませんでしたが、これに端を発し、
日本の貴重な文化と文化財を数多く破壊した廃仏毀釈運動が起こります。
数年後の1871年(明治4年)には全体として終息したものの、その間に日本全土において仏堂、仏像、仏具などが破壊され、
数多くの歴史ある寺院が廃寺に追い込まれました。
大阪住吉神社神宮寺に大伽藍はほとんどが破壊され、奈良興福寺でも食堂が破壊、
千葉鋸山の五百羅漢はすべてが破壊、伊勢神宮のお膝元である三重県では100か所以上が廃寺となったといいます。
鎌倉でも、鶴岡八幡宮にあった数々の仏堂や塔頭、仏像が破壊され、
源頼朝が創建し700年に渡り神仏双方が護持されてきた鶴岡八幡宮は全く違う姿になってしまいました。
鎌倉に大量にあるやぐらにはよく仏像が安置されていますが、首の折られているものが多数あります。
これももしかすると廃仏毀釈の行いかもしれません。様々な変遷を経て今日残っている歴史ある日本の神仏を少しでも大切にしていきたいものです。
(江ノ島/江島神社 全5回 おわり)
https://kamakura-guide.jp/enoshima_enoshimajinjya-5 近世に弁財天信仰にもとづく江の島詣で多くの参詣者を集めたが、明治初年の神仏分離で江島神社となった。
それまでの信仰主対象であった妙音弁財天座像は宝庫に収蔵され、八臂弁財天座像をはじめ散逸を免れた仏教関係資料とその他伝来の社宝合計約40点は江島神社中津宮境内に設けた宝物拝観所で公開された。
日本国内でもっとも古くに創設された神社博物館の一つである。戦後1970(昭和45)年に、奈良県法隆寺夢殿を模して現在の弁天堂(奉安殿)が江島神社辺津宮境内に新設統合され、
改めて信仰対象として妙音弁財天像・八臂弁財天像などが安置されている。現在、神職が運営を兼務している。
http://www2.kokugakuin.ac.jp/museum/jinja/14/14_enoshima.html
明治維新後に明治政府が成立すると、1873年(明治6年)に神仏分離令が発布されます。それとともに廃仏毀釈運動が起こり、
「金亀山与願寺」であった江ノ島は三重塔や八臂弁財天を安置していた楼門など貴重な仏教施設が破壊もしくは廃棄され、主祭神を宗像三女神に変更して今日ある「江島神社」の姿になりました。 >>352
なのかね?!
一文字以外は漢民族じゃない人達 上代日本語に「ん」はありません!
シヴァ([ˈʃivə]; サンスクリット: शिव, Śiva、「吉祥者」の意)はヒンドゥー教の神である。
現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人であり、特にシヴァ派では最高神に位置付けられている。
司馬王? 祇園祭も渡来韓国人が始めた祭だしね
日王や牛頭天王も古代大韓帝国皇帝の配下の王なのは世界では常識
ネトウヨは歴史を勉強しないから知らないだろうな 全部漢民族の功績になっちゃってるんだよなw
多民族なのに キリスト教以前、西方世界では牛を神聖視して崇める宗教が拡がっていた
クレタ島だかミロス島だかにもそんな絵があるし聖書にも邪教として記述がある
そしてインドでは牛は聖なる動物 >>372
明治政府はなんということをしてくれたんだよ… 偏狭な田舎っぺ東夷のトンキンが居座ってるから
畿内の荘厳な文化が隠れてるが
畿内文明はアジアと繋がってる
トンキンはただの東夷土人やで >>376
好太王(高句麗第19代王)碑「そもそも新羅・百残は高句麗の属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。」 >>330
パヨって稲作文化圏がタイやラオスなど東南アジアから
中国南部の広西チワン族自治区に広まり、東部の水郷地帯(浙江省のあたり)の沿岸部から
黒潮に乗った南回りの海洋ルートで入ってきたの知らんのだな……
北回りの朝鮮半島が稲作を始めたの日本よりずっと後だぞ 宝光井って何とも珍しい家名だな、由来はどこから来てるんだろうか? 宝(バァォ)って切り取ったちんkじゃなかったっけ? >>387
ただね弥生人は犬食してたらしいんだな
東南アジアは犬食べないらしいから
「弥生人」と言った場合はやはり東アジアの
文化圏だと思われる 204考える名無しさん2020/12/21(月) 01:59:15.360
「牛頭天王」というのが話題にされたスレが別の板に立っていて、
Wikipediaで検索してみると、スサノオが「曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)」
というところに降臨したという記載があった。「ソシモリ」という言葉に
ついても、「尸」という漢字についても私は何も知らなかったが、
検索してみると、「尸(Middle Chinese: /ɕiɪ/)」は、
"a living person who represents the dead person during a rite"
を表象するとされ、日本では、「屍 (“corpse; cadaver”)」と互換的に
用いられるとのことである。すると、「尸(し)」は、その発音および
用法から見ても、「絵(ゑ)としての由来/Glyph origin」から見ても、
英語にするなら、"let/laid down"に相当するような様態を表現である
と考えることができ、このことは、英語の"cadaver"の語源が
"probably from a perfective participle of cadere "to fall, sink,
settle down, ..."とされることから考えても妥当である。
https://www.etymonline.com/search?q=cadaver
さらに、日本語の「そ」は、漢字の「祖」、「阻」、「沮」に対応するように
用いられる場合、石などが積みあがった様態をイメージさせる。
「茂(も)り」は、「もりもり」という擬態語からイメージされるとおりに
理解することが可能である。したがって、「曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)」
は、日本語の表現として素直にそのまま解釈するなら、「屍がうず高く
積みあがったところ」であると理解することができる。
「牛頭」はなにか持って回った解釈をしなくても容易に分かるとおり、
「殺生」を代表するメトニミーであり、「曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)」は、
現代語として普通に通用する表現にするなら「死屍累々」ということになる。 206考える名無しさん2020/12/21(月) 09:02:37.660
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇志摩利
>従って楽曲としての名称は「ソシマリ」(蘇志摩利)または「ソシモリ」
(蘇尸茂利)であるが、その名称の元になった伝説上の地名は「ソシモリ」
(曾尸茂梨)の方であって「ソシマリ」ではないから注意が必要である
(ソシマリはソシモリが訛ったものである)。<
>貧乏な兄の蘇民將來は歓待して宿を貸し、粟飯を振舞った。蘇民の親切に
感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民に授け、
のちに蘇民は富貴の人となった。<
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇民将来
「死屍累々」の様態を表現する「曽尸茂利(ソシモリ)」から、
「蘇志摩利(そしまり)」と呼ばれる楽曲に合わせて舞(ま)ひを舞ふこと
によって「民が蘇る」ことを「将来」するのだから、疫病や戦乱など
によって国が衰亡に向かうような状態からの国力の回復を願ふ
いかにも統治者目線のストリーである。摩利(まり)の「まり」は、
鞠(まり)が丸いように満ち足りた様態を表現し、「満(まん)(≒"fullness")」の
「ま」の発音が響いている。 >300
中国の段階で翻訳経典が意図的に削除されたりしてるから、日本への伝播はまず無理。
意味が解らなくて伝えていけない。口伝だとしても儀軌の類も残されてない。
そして密教は法具も大切でそれが残ってないのが伝わらなかったと考えて良い論拠。 https://youtu.be/2rjBT6dFmIg
砂漠になる前のシルクロード ってどうだったんだろ?!
大国あったんだろうな。
滅びた国って夢があるよね! >>376
渡来韓国神にしちゃえよウリナラファンタジー 904考える名無しさん2020/12/17(木) 07:24:06.580
「磯(いそ)」/「沃(い)沮(そ)」という表現は、「沃(い)」≒"pouring out(英語)"が、
この場合には、フランス語にするなら"débordement"が生じることを「阻(そ)止する」(中国語の『沮』)ように岩石が幾重かに積み重なっている様子を想起させる。
「そ」に当てられる漢字は異なるものの、やはり、"débordement"(この場合は、
"déviation"と表現した方が分かりやすいが)生じることを「阻(そ)止する」ように道を守っているのが道祖神(どうそじん)である。
>道祖神は、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である。
のちには縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、
石に文字や像を刻んだものなどがある。< ウィキペディア
909考える名無しさん2020/12/17(木) 09:02:45.710
>平安時代の『和名抄』にも「道祖」という言葉が出てきており、
そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、
外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている< ウイキペディア もっさん、モロク?
牛魔王ならドラゴンボールにも出てたよな 小野不由美の「なんとかの島」とかいう小説を思い出した 303考える名無しさん2020/12/15(火) 09:29:56.950
このように見ると、日本語は、中国語の表現を流用して、それを体系化する
ことなしには、日本語として形成されなかっただろうと考えられる。
しかし、では、日本語は、中国語から枝(𛀁だ/yeda)分かれした中国語と
同系統の言語なのかといえば、そうではない。中国語の表現を大々的に
流用するピジン言語としての「原日本語」が、中国語の用法を規範として
いて、それに依拠していたなら、現代の日本語につながる言語が形成される
ことはなく、時とともに中国語に吸収されることになり、中国語の方言と
なっていただろう。
日本語の表現は、その根幹においてさえ、中国語の表現に「由来する」もの
と考えられるものの、それを、中国語の規範を模倣することによって生じた
「派生」と見なすことはできない。というのも、ピジン言語としての
「原日本語」は、中国語から類推によって形成した表現を、中国語として
は通用しないことを承知のうえで、次々に派生させて生成することにより、
「中国語としての規範」を参照しない、独自の自律的な発音の用法を体系的に
確立しているからだ。 302考える名無しさん2020/12/15(火) 08:30:46.550
依怙贔屓(えこひいき)の「依(𛀁/ye)怙」は、「依りたのむこと。また、
頼りとするもの」(岩波古語辞典)を意味する。
他方、「失怙」という中国語の表現は、「父に死なれること」を意味するとされる。
すると、日本語の古語において「同母の子のうち年少者から見た同性の年長者」を
指すように用いられたとされ(岩波古語辞典)、「兄/姉」の漢字が当てられた
古語の「𛀁/ye」という表現は、「依りたのむこと、または頼りとすることの
できる身寄り」を想起させたものと推測することができる。
同様に「柄(𛀁/ye)」も、「(手もたれとして)『頼/た(手)のみ』に、もしくは
『頼りに/た(手)よ(依/yo)りに』」する「とって(≒"handle/support")」を
表現しており、「枝(𛀁/ye)」という表現も、歌語として使われ、平安時代
以降は「梅が枝(𛀁/ye)」や「花の枝(𛀁/ye)」などの複合語の中に残った
とされる(岩波古語辞典)ことから、やはり、「依(よ/yo)りかかるものを
支える作用をするもの(≒"support")」を想起させる表現として用いられた
のだろうと考えられる。
ちなみに、椅子(いす)の「い」も、本来、や行の「yi」と理解されるべきもの
であり、「倚(い/yi)子(す)」という表記によって、それが、人が預ける体重を
支える道具としてイメージされたことが分かる。 〇ん〇ん
の坊主多いでしょ?
かんがく観覚
どうげん道元
しんかん真観
どんかい呑海
いっぺん一遍
ちょうげん重源
げんしん源信
かんろく観勒(百済人)
どんちょう曇徴(高句麗人) オリエントのバアル信仰が関わってるとか書いてる本があったような 元寇の司令官も「インドさん」なんだよな?
(忻都ヒンドゥー)
支那にインド人沢山住んでたの? >忘れられた神、「牛頭天王」
こんな妄想の八百万の愚の神様引っ張り出してきて
まだ
日本民族の精神年齢向上の足を引っ張るつもりなのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています