https://youtu.be/AKI2Tcdpcmg

https://jisin.jp/entertainment/interview/2001307/

俳優の三浦春馬さんが、30歳という若さで旅立ったという衝撃的な出来事から、7月18日で1年になる。生前の三浦さんについては、誰もが口をそろえて、「どんな人にも真摯に接する純真な人」と評した。三浦さん自身、かつてこんなことを語っている。



「自分で言うのも何ですが、僕はちょっと人に優しすぎるとこがあって(笑)」(『からだにいいこと』’19年10月号)



超多忙な芸能活動の傍ら、常に弱い立場にいる人たちに心を寄せ、ときには難病患者と、ときには被爆者と語り合い、元気づける姿があった。エイズの啓発を行う「Act Against AIDS」(現:Act Against Anything)に積極的に参加していたことは、ファン以外にはあまり知られていないかもしれない。その支援金などをもとにラオスでは小児病院が設立されているが、彼が病院建設中から現地を訪れ、HIVポジティブの子供たちとふれ合う光景は、本誌でも報じている。




そんな三浦さんとじかに接した多くの人の証言から、真面目で心温かい彼の人物像が浮かび上がってきた。



■広島へ被爆者を訪ね、直筆の手紙を――



「以前、広島を訪ねたとき、ある被爆者の方から、『人間は想像力が欠如したときにむごいことをする』というお話をうかがいました」



三浦さんは’20年7月8日、戦時中の新型爆弾開発を題材にしたNHKドラマ『太陽の子』のプロモーションで広島を訪れた際に、こう語っていた。彼が突然、亡くなったのは、その10日後のことである。



「三浦さんが広島を再訪したあのとき、会って、『がんばっとるのう』とひと言でも話しておれば、という後悔が今もあるんじゃよ」



梶矢文昭さん(82)は、三浦さんが「ある被爆者の方」と口にしたその人だ。6歳で被爆し、教員を定年退職後、「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を設立、現在も語り部活動などを続けている。



三浦さんは、47都道府県を訪ね歩いての交流をまとめた著書『日本製』(ワニブックス)の広島編の取材で「改めて平和について考える機会にしたい」と熱望し、梶矢さん宅を訪問していた。



「三浦さんがうちに取材でやってくる前から女房の輝實は末期の乳がんで入院中じゃったが、病室で尋ねたら、『会いたい、会いたい』と。わしが主治医と交渉して10分だけの帰宅が許されたのじゃった」



映画好きの夫妻は、特攻隊員と家族の葛藤を描いた『永遠の0』(’13年)を見て以来、三浦さんの大ファンになっていた。ところが取材当日の’17年3月13日、一行は遅刻してきたのだという。



「こりゃ、だまされたわいとも思っておったが、20分もして、三浦さんが車から降りてきたときは、一目見た瞬間からオーラが輝いておって、まぶしいようじゃった」