http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201704/CK2017041302000234.html

 五十三年前に東京都町田市で住民四人が犠牲となった米軍機墜落事故の追悼のため、市民有志が制作に乗り出したブロンズ像の設置場所が宙に浮いている。遺族などの「複雑な感情」を理由に、市が受け取りに消極的なためだ。市民有志らは「市は事故の記憶を風化させない立場だったはず」と、近く市に正式な設置の要請を行う。 (栗原淳)
 墜落事故は一九六四年四月、町田市原町田の商店街で起きた。民家四軒が吹き飛ばされ、住民四人が死亡した。事故現場の跡地は現在、駐車場となっている。
 市民有志によるブロンズ像の制作を目指す活動は、事故から五十年の二〇一四年春に始まった。慰霊とともに、事故を後世に伝え、平和を祈ることが目的だ。実行委員会を立ち上げて寄付を呼び掛けたところ、千人以上が賛同して約三百万円が集まり、制作に取り掛かった。
 実行委は、事故現場近くの歩道や公園などに設置してくれることを期待し、市への寄贈を前提としていたが、市は固辞する意向を伝えてきたという。現場跡地の駐車場の所有者からも、「設置は困る」との答えが返ってきた。
 市企画政策課は取材に「事故を二度と起こしてはならないという思いは市も同じだが、遺族や被害者、周辺住民には、もう忘れたいという人もいるだろう。像を置くとなると、意見の集約がなければ難しい」と現段階での受け取りには否定的だ。

 実行委は五日に市内で開いた「追悼の集い」で、プラスチック製の原像を初めて公表した。高さ約一・六メートルで左手に裸の乳児を抱いた母親の立像だ。制作を手掛けた彫刻家日比野知三(ともぞう)さん(80)=八王子市=は「母の強さだけでなく、事故を目の当たりにした恐怖心や心のもろさも表現した」と解説した。原像から型を取り、ブロンズ像を作る工程に入ったという。
墜落現場を訪れて事故当時の説明を聞く実行委のメンバーら
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 実行委は、市が六五年に事故の記録を発行し、約四十年後には復刻させたことなどから、記憶を風化させない立場では一致していると考え、改めて市有地への設置を求めていくという。実行委の代表で地元の自治会連合会長を務める岩崎俊男さん(71)は「事故を知らない市民も多い。地元での悲惨な事故を記憶し続けるため、もう一歩努力したい」と話している。

<町田米軍機墜落事故> 1964年4月5日夕、沖縄・嘉手納(かでな)基地から神奈川県大和市、綾瀬市の厚木基地に向かう途中だった米海兵隊の戦闘機が、当時の国鉄原町田駅(現JR町田駅)近くの商店街に墜落、炎上。乗組員はパラシュートで脱出し、生後9カ月の男児を含む住民4人が死亡、32人が重軽傷を負った。民家4軒を吹き飛ばし、周囲の20軒以上も全半壊する