横浜における目撃者の談話からその一端を見ておきたい。

「一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は
何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが
大崩壊に続くもうかには遺憾ともすることが出来ず、
二日迄絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。

況んや不逞の鮮人約二千は腕を生んで市中を横行し、略奪を擅にするは元より、
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婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふている。
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これに対する官憲の警備は東京市と異なり、軍隊の出動もないので行き届かざること甚だしく、
ついには監獄囚人全部を解放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当たらしめたので大戦闘となり、
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鮮人百余人を斃したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。

以上の如き有様なので食料飲料水の欠乏は極に達し、
然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである」
(大日本石鹸社専務:細田勝一郎談「河北新報」大正十二年九月五日)