昭和19(1944)年8月11日。
この日はグアム島の守備隊が玉砕した日です。
島にいた日本軍守備隊1万8,500名。死者1万8千名。

米軍の2個師団5万5千人+戦艦+航空機による爆撃という圧倒的戦力との戦いでした。

この年の6月から戦艦による艦砲射撃や航空機によるでグアムへの爆撃を開始した米軍が、グアム島への上陸を開始したのは、7月21日のことでした。
もともと予定では6月18日が米軍の上陸開始の予定日だったのです。
これに合わせて艦砲射撃や航空機による爆撃をやっていたのに、その上陸開始が予定よりもまる一ヶ月以上も遅れたということは、それだけ日本側の抵抗が激しかったことを意味します。


米軍の爆撃や艦砲射撃は、すさまじいものでした。
物量(火力)にものをいわせた米軍は、グアムの美しいサンゴを壊滅させ、山の形までも変わるほどの爆撃を行ったのです。
そこまでしても上陸できない。

日本のグアム守備隊の当初の作戦は、米軍の上陸を水際で食い止めようとするものでした。
他の島でもそうですが、水際作戦のための守備陣地は、初期の米軍のむちゃくちゃな砲撃と爆撃で、ことごとく灰燼に帰しています。
ところが、そこままで破壊しつくしたはずなのに、いざ上陸しようとすると、米軍の上陸部隊がどこからともなく日本側の攻撃にあう。だから上陸できなかったのです。

いよいよ本格的な上陸作戦が開始された7月21日もそうでした。
日本は、揚陸中の米軍のLVT(水陸両用装軌車)20両を、またたく間に粉砕しました。
ところがすでに本土との海上補給ルートを絶たれた日本側は、砲弾が続かない。
それを承知の米軍は、一気に大軍をもって浜に押し寄せたのです。

すこし付け加えますが、よく戦争映画などでゲームセンターのシューティングゲームさながらに、機関銃を連射し続けたり大砲を撃ちまくったりするシーンがありますが、あのような戦いは日本にはできませんでした。
常に物資の不足に悩まされ続けた(そのこと自体が戦争のきっかけでもあったのですが)
日本の兵隊さんたちは、弾薬を撃っているまさに戦闘のその真っ只中の最中に、常に伝令がやってきて「射撃何発、残り何発」と報告を求められましたし、無駄撃ちすることは厳しく咎(とが)められました。

逆に言えば、乏しい弾薬で、補給もない状況の中にあって、米軍の6月中のグアム占領の計画を、その上陸さえも一ヶ月以上も引き延ばさせ、さらに上陸後もまる一ヶ月近くも米軍に島の占領を許さなかったということは、
どれだけ日本の兵隊さんたちが、ものすごい能力を発揮したかということです。

このことは、常にはっきりと認識しておく必要があると思います。