>>94つづき
1931(昭和六)年9月18日夜、奉天に近い柳条湖にて,満鉄線が爆破された。
これを機会に,日中両国軍が衝突、「満鉄を守るために」という口実の下、関東軍各部隊に出動命令が出された。
日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていたが、実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略事件であった。
事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐であり、ともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、
張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任した。
関東軍は、政府の不拡大方針を無視し、たちまち「満州」全土を占領していった。(満州事変)
そのころ中国上海では、日本の帝国主義への反発が高まり、抗日運動が日ごとに激しくなっていったという。
1932(昭和七)年1月、上海で日本軍の謀略がきっかけに中国人と衝突し,日本軍が上陸。中国軍との激しい闘いが始まった。これを上海事変という。
上海日本人僧侶襲撃事件について、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐は、自らが計画した謀略であったと証言している。
また、この上海事変は、柳条湖事件の首謀者板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐らの依頼によって、世界の目を他にそらすために計画し、
実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」川島芳子であったという。
この頃、日本国内では政治家や実業家が暗殺される事件が続いて起こっていた。
1932(昭和七)年3月、関東軍は清朝慎重最後の皇帝溥儀を元首にすえ、満州国を独立させた。しかし、実際は「満州国」の政治や経済は,日本の支配下に置かれたという。