>>115つづき
1932(昭和七)年5月15日、首相官邸で、犬養毅首相が海軍の青年将校達によって暗殺された。
1933(昭和八)年2月、国際連盟本部では,リットン報告書に基づき、日本に満州から引くよう勧告が採決された。
出席していた松岡洋右日本代表首席全権はその場で退場。約1ヶ月後に,日本政府は国際連盟脱退を正式に声明した。
日本国内では,社会主義運動に対する弾圧が強まった。
プロレタリア作家の小林多喜二は警察によって虐殺された。学問、言論の自由も奪われ、大学の自治が失われた。
1936(昭和一一)年2月6日、岡田啓介首相、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監が相次いで暗殺され、首相官邸などが占拠された。これを「二・二・六事件」という。
青年将校達は、十七名が銃殺刑になった。北一輝は、思想的指導者とみられ,処刑された。
1937(昭和一二)年7月8日未明、中国の北平(現在の北京)の盧溝橋で、偶発的な事柄を切っ掛けに日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件が起こった。
これを盧溝橋事件という。9日には停戦協定が成立。しかし、この事件をめぐって、日本陸軍内は拡大派と不拡大派の二つの意見に分かれたが、不拡大派の石原少将が左遷され、
中国への派兵が決定された。そしてこの事件を切っ掛けに,日本と中国は全面戦争に入って行った。
1937(昭和一二)年7月末、日本軍は華北をおさえ、8月15日には上海にも戦火が広まった。
1937(昭和一二)年12月はじめ、日本軍は南京城を総攻撃、13日には中華民国政府の首都南京を占領した。そして捕虜を川岸に集め、虐殺。
その総数については中国と日本の間で食い違いがあるが、東京裁判の記録では11万人以上になるという。