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 翌2日夜には勅令により戒厳令が施行される。戒厳司令部は各地から総数5万の兵を動員し、警視庁と合同で朝鮮人襲来の警戒を各地に発した。こうして政府・軍・警察・自警団が協調して朝鮮人によるテロ鎮圧と自衛のための態勢が構築されていく。
 しかしそうした趨勢に変化が見られたのは4日目である。それまで連日朝鮮人の犯罪を報道し続けていた新聞も、その頃をターニングポイントとして記事の傾向が変化する。9月5日付東京日日には次のような記事が載っている。
「善良な鮮人を愛せよ。
善良なる朝鮮人を敵視してはなりませぬ
警察力も兵力も充分ですからこれに信頼して安心してください
各自に武器等を執て防衛する必要はありません
勝手に武器を携帯することは戒厳司令官の命令に依り堅く禁ぜられてをりますからやめて下さい」

 つまり既に軍と警察が治安を預かる態勢ができたから、朝鮮人のテロに対して民衆はなにも(特に過剰に)対処しなくていいということである。
以降このような趣旨の報道や通達が相次ぎ、それまでとは急転直下に対朝鮮人感情をなだめる方向に向かうのだが、これにはもちろん発信源がある。震災翌日の9月2日に組閣された山本権兵衛内閣の内務大臣・後藤新平である。

 彼は先の三・一独立運動等の反省から、それまで韓国統監府が武断統治をしてきたことに対して、今度は宥和・懐柔策によって朝鮮人による反日活動を沈静化させる策に出たのである。
彼はまず新聞報道への介入を行った。当時の政府介入は強制以外のなにものでもない。その結果今までとは掌を返したように各社は、「善良なる朝鮮人」「朝鮮人による美談」記事を唐突に掲載し始めたのである。

 この時後藤新平は、当時警視庁官房主事だった正力松太郎に、「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。
必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」と語ったという。
当初暴動鎮圧に躍起となっていた正力だったが、後藤の心中に触れて感激し、以後一転して風評の打消し役に徹するようになった。

 後藤は朝鮮人活動家によるテロと凶悪犯罪は戒厳令下の軍事力で防ぎつつも、自警団の武装を解除して民心の安定を図らない限りは、この内戦状態は更にエスカレートして、
終いには摂政宮(皇太子であり後の昭和天皇・裕仁)にまで危害が及びかねないだろうことを恐れたのである(事実捕まえた活動家の口から、テロ目標の一つが御大典における皇太子暗殺だという情報を得ていた)。
また震災の混乱により皇室の警護も平時並みに万全とは言えない苦しい状況にあった。だからここは強引にでも自警団に引いてもらう、そう決意したのである。

 それまでテロ活動家の取締り一辺倒だった治安当局は、その後はそれに加えて、朝鮮人に対する自警団の過剰防衛についても厳しく取締り始める。
後に過剰防衛容疑で起訴された日本人は367人。罪なく殺されたとされる朝鮮人の数、233人よりも多い。

 事実は事実として承知しながらも、ただ事態を鎮静化するために「朝鮮人のすべてが悪い者ではない」「善い朝鮮人もたくさんいる」ことをクローズアップしつつ、特に朝鮮人による不穏な動きを国民に知られないよう封殺して、
これ以上の悪化を防ごうとした。政府のこの対策が後に独り歩きして、「流言飛語による朝鮮人の虐殺」に歪曲されることになる。