関東大震災の時にも、今度と同じような経験をしたことがある。あの時にも不逞鮮人事件という不幸な流言があった。
上野で焼け出された私たちの一家は、本郷の友人の家へ逃げた。大火が漸くおさまっても流言は絶えない。
三日目かの朝、駒込の肴町の坂上へ出て見ると、道路は不安気げな顔付をした人で一杯である。
その間を警視庁の騎馬巡査が一人、人々を左右に散らしながら、遠くの坂下から馳上って来た。
そして坂上でちょっと馬を止めて「唯今六郷川を挟んで彼我交戦中であるが、何時あの線が破れるかもしれないから、皆さんその準備を願います」と大声で怒鳴ってまた馳けて行った。
もう二十年以上も前のことであるが、あの時の状景は今でもありありと思い浮べることが出来る。
勿論全く根も葉もない流言であった。
中谷宇吉郎『流言蜚語』