■皇統が双系継承と認識されていた証拠

○岡部政久が政定を婿養子とした件について
本文
【恒久の子を。太郎馬政常と言ひ。政久の子を。五郎馬定詮と云ひ。定詮の子を権兵衛政久と云ひ。政久の子を
次郎左衛門政定と云ふ。】
注釈
「政久に女子二人有りし故に。政定を婿養子と為たり。政定ぞ。本性の父は。駿河ノ国人にて。原氏なりしと云ふ。
然れば。是より末は。女の血脈(スヂ)をもて継(ツギ)しなり。漢國にては。女の血系(チスヂ)をば。系ともなき如く
云めれど。皇國は神世よりして。女の系をも系と立て。へだつる事なきぞ。神随(カムナガラ)なる道なる。そは掛巻
(カケマ)くも畏き。天皇の御大祖の。女神に御し坐すをもて知るべし。但し。是につきて心得べき事あり。そは家の
女子(ムスメ)に聟(ムコ)とりて繼(ツギ)たるは。然(サ)る事なれど。家の男子に娵(ヨメ)を迎(ムカ)へたるは。
尋常(ヨノツネ)の事にて。右の道理とは異(コト)なり。思ひ混(マガ)ふべからず。(後略)」
―『玉襷 九之巻』 平田篤胤
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皇統男系説は、明治時代の男尊女卑思想の影響で生まれた謬説
江戸時代以前に男系継承と認識されていた形跡はない

皇統男系説のような謬説が信じられてしまったのは、維新の「下剋上」のせい
平田篤胤の一文にある通り、日本の保守は本来「男女を分け隔てしない思想」を持っていた
一方九州のような周辺部や下級の身分の者は「抑圧移譲」で、異端の男尊女卑思想を持つ者もいた
明治維新で権力を握ったのは、この異端思想の持主たち
実際、女系容認案を潰したのは、熊本藩の家老の家臣の子、法務官僚井上毅だった
今の反女帝反女系天皇を主張している自称「保守」たちは、明治時代にすり替わった伝統破壊の「偽保守」に過ぎない