大戦中も安倍の祖父である岸はグルー米国大使とゴルフをし、戦後はCIAのエージェントになっていた。

下記は「CIA秘録」で公知だよ。知らんの?

1 日米開戦後の1942年、岸は軟禁中の米国大使、ジョセフ・グルーをゴルフに招いた(聖戦中に岸はなんと、敵性スポーツのゴルフをしていた。それも鬼畜の大使と!)。

二人はそれ以来、友人になった。岸が戦後、巣鴨から釈放されたとき、
グルーはCIAのフロント組織、「自由ヨーロッバ国民委員会」の初代委員長だった。

2 岸は巣鴨から釈放されると、まっすぐ首相官邸に向かった。官房長官の弟、佐藤栄作がスーツを用意して待っていた。
「なんかヘンだね」と岸は佐藤に言った、「いまやわれわれは民主主義者だ」

3 岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。
カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。

4 1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソンを招いた。
幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。

5 その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。

「彼(岸)は明に、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。

岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。

彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。

6 ダレスが岸に会ったのは、1955年8月のことだった。ダレス国務長官は、一対一で岸に、支持を期待していると言った。日本の保守層が一体化し、共産主義と闘うアメリカを支持できるかどうか聞いた。

7 岸は米国大使館の高官であるサム・バーガーに言った。若くて地位の低い、日本で知られていない人間を、連絡役にするのがベストだと。
お鉢は、CIAのクライド・マカヴォイに回った。マカヴォイは沖縄戦の経験者で、フリーで新聞記者の仕事をしていた。クライドが来日してすぐ、バーガーは彼を岸に紹介した。

これにより、CIAの外国政治指導者との関係のなかでより強固なもののひとつが生まれることになった。 

8 CIAと自民党の間の最も重要なやりとりは、情報提供に対する金(マネー)の支払いだった。
マネーは自民党の支持の取り付けと、その内部の情報提供者のリクルートすることに使われた。アメリカ人たちは、若い将来性のある自民党政治家に金を支払っていた。
彼らはのちに、国会議員や大臣、長老政治家になっていった。