>>832
音読してみて

信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて
督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を
率いる石原多門から次のように語られている。

「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)

甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。

他にも「会津・長岡両藩
越地人民ノ心を取失候上」や
「会兵と御離れ、仕事を別申て
御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位を
いつく迄も御示被遊、御仁恤を御下し
被為在候様無之候ては
危急此事ト奉存候」
(米沢藩戊辰文書)