>>492
上洛以後も、信長は朝廷を通じた上で将軍命令として敵対する比叡山との和睦交渉を進めているから、義昭が信長と対立して追放されるまでは権威はあったろうと思う。
追放された後、足利義昭の鞆幕府がどれほど権限があったのかは分からないけど、毛利氏の客将扱いだったから全く権威が無かったわけではないと思う。

>>494
個人的には、徳川家康は限りなく織田信長に臣従していたのだと思う。
今川からの独立時は三河一国を掌握していないし、独立の経緯を見ても、織田家に臣従する算段をつけていないと今川の反撃を受けて滅亡する恐れがあった。
信康事件(家康と信康との主導権争いという説に立つ)でも家康はわざわざ家中の問題を信長に報告して伺いを立てているし、甲州征伐でも主導権は完全に織田側にあって駿河を信長から拝領する形になってしまっている。

本能寺の変の時は、その駿河拝領のお礼のために安土や堺を訪問させられているし、同盟者というよりも完全に家臣扱いだと思うんだよね。