【関ケ原の戦い】石田三成と小早川秀秋 子孫が400年ごしの“和解”/滋賀・観音寺★2
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石田秀雄さん(左)が秀秋を「勇将だ」とたたえ、小早川隆治さん(右)と固い握手
http://www.sankei.com/images/news/171029/wst1710290058-p1.jpg
「関ケ原の戦い」で西軍を率いた石田三成と、東軍に寝返ったとされる小早川秀秋の子孫が29日、三成ゆかりの観音寺(滋賀県米原市)で会談した。
映画「関ヶ原」の公開を記念し、同市が開いた座談会で実現。両家の伝承や、秀秋は当初から東軍だったとの学説も紹介され、ファンが聞き入った。
石田秀雄さん(67)が秀秋を「勇将だ」とたたえ、小早川隆治さん(76)と固い握手。約400年越しに“和解”した。
配信2017.10.29 21:40更新
産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/171029/wst1710290058-n1.html
★1が立った時間 2017/10/30(月) 00:52:22.94
前スレ
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1509292342/ 内心で石田が勝ち誇り小早川が後ろめたい握手が見える 石田秀雄は偽物子孫
三成の長男重家には妻子はいない
12歳で大徳寺で出家してる 現代日本においては
うちと隣の田中さんちの和解の方がよっぽど重要だという 当初から東軍だった学説てw
どう足掻こうが裏切り者だろ 「諸説あり」で先月と今月やった関ヶ原特集が
いろいろ覆ってておもしろかったよ
今この番組が歴史番組のなかで一番おもしろい 小早川さんは本物の子孫だよ
秀秋の血は全く引いてないけど
毛利家の明治維新への功績で毛利公爵家から分家して小早川男爵家として再興された 小早川家は明治に再興されたような?
元野球選手の小早川氏はその子孫? 三成の子孫はちょっと前まで妙高温泉で旅館やってたんだよな
つぶれたけど 武将の子孫と言えば今は亡き細川隆一郎が本当はうちが本家なんだといって聞かなかった。 ここでも、今でも宇喜多秀家の扱いが空気並なのは・・・・なんなん。 >>10
今はそうなってる
むしろ土壇場で裏切ったのは南宮山の吉川晃司
ちなみに主戦場は関ヶ原じゃなくてその西の「山中」
戦い自体も徳川方の猛攻で一時間で終了 人は記憶型と思考型に大別できる
秀吉が死んだとき既に次の天下人は家康と大方決まっていた
家康は手筋を間違えずに天下を獲ったんじゃね
豊臣秀頼 200万石
徳川家康 240万石 小早川秀秋が裏切ったおかげで、毛利が260年冷や飯を食わされるハメになった
→恨みのエネルギーが倒幕維新の原動力になった
→欧米列強の植民地にならずに済んだ
全日本人は秀秋さんに感謝すべき >>2
小早川家は毛利から入った養子が明治時代に復興した男爵家でその出自は明白。
小早川男爵は日産の自動車技師で
今回和解したその長男もマツダでRX−7を
孫もマツダでRX−8の開発に携わったことまでわかったるし。
家としての小早川家を相続したのであって長州藩最後の藩主の玄孫で
毛利公爵の曾孫の人だから。 絶対に許さない四天王の一人ってだけで名を挙げたよな金吾。
オレもキレると思う。 >>26 毛利は最初から天下取る気ないじゃん 地元企業 関ケ原で戦ってたら小早川が寝返った、のではなく
小早川が寝返ったから西軍がそそくさと関ケ原に戻ってそこで会戦になった
が今現在の最新の研究結果なんだろ? >>15
秀秋の血もひいてなくて家を存続させたわけでもなく
たまたま過去に親戚だった血筋が、家名を復興させただけって事か
そういうのに何の価値があるのかね
分家作るのに毛利3兄弟にあやかろうとしただけに見えるが >>27
カープから金で寝返ってジャイアンツに移った奴 小早川秀秋は豊臣の親族で秀吉の養子
秀次につぐ関白承継候補
なんで格下の石田三成に従う義務があるんだ >>32
じゃあ隆景の子孫ならいいのか?それも残ってるよ。
でも小早川家は明治維新後に復活させたこっちが本家。
まあどっちにしろ元就の血を引いてるんだからいいじゃん。
小早川家も隆景が乗っ取ったんだし。 >>24
マジかよ、面白いな
しかしそこまで食い違うともはや関ヶ原の戦いなんて創作でしたレベになりそう 昔よく飲み屋へ行くと「俺の先祖は殿様だったんだ!」って言い張るおっさんいたよね? 小早川のほうが一方的に裏切り者なのに、よく和解なんかしたな
石田の恥さらしだろ 石田三成の子孫と言えば
自証院、通称・お振の方(? - 寛永17年8月21日(1640年10月6日))
江戸幕府3代将軍徳川家光の側室。千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。通称お振の方。
母は牧村利貞の娘・祖心尼の娘、父は蒲生家臣の岡重政の息子・岡吉右衛門。吉右衛門の母(自証院の祖母)は石田三成の娘で、自証院は三成の曾孫。 西軍の負けた理由
1,朝鮮出兵の時に行った損になった武闘派と、朝鮮出兵の処理をした奉行衆達に深い溝ができていた(恨み)
武闘派は家康に近づいて行き東軍に主力になった
2,豊臣秀次を粛正したときに豊臣家の忠臣をみんな殺しちゃった
「謀反じゃない」と庇ったのが豊臣の忠臣で、我関せずの方がどう考えても直ぐ裏切るの分かっていた
案の定、秀次事件の時に我関せずを決め込んだ家臣は全部東軍に行った
小早川秀秋一人を悪者みたいにしちゃったのは、関ヶ原の直ぐ後に病死して死人に口なし状態で
あいつが一番酷いみたいにして世論操作がなされた結果と思う >>38
歴史群像って雑誌の今月号
新説の関ヶ原特集で面白いよ >>1
一言、くだらないです。
ちょっと前まで刀で斬りあっていたのか?
違うだろ。
心が狭すぎだわ。 >>10
裏切者ってよりはどっちに就くかわからない中立軍。
なんせ東西どっちの軍議にも参加してないし、西軍の陣取っていた松尾山城を攻めて
奪ってるし、勝ち馬に乗ろうとした、もしくは東西両軍の疲弊で漁夫の利を狙おうとしていた
ものと思われる。 小早川秀秋って養子だろそもそも 毛利家の五大老の一人小早川隆景の関係者か
何かなの ついでに吉川広家の子孫でも呼べば完璧なのにw 初めから東軍でも 最初西軍なんだから裏切者だろ
そう考えると裏切者多すぎの戦いだった 毛利も吉川も 天下分け目でも何でもない
秀才と名高い三成をつぶすための戦いにしか見えなくなったわ やっぱ未来に優秀な血を残すには
一夫多妻制にすべきだと思うんだよなあ 一方、安倍ちゃん率いる長州軍は、被曝の会津藩を今後も見放したままです 和解なんかするなよつまらんだろ
嫌味や罵倒してやれよ >>55
毛利輝元の器量の無さだよ。
西軍総大将なのに戦場にはやってこないは、吉川と秀元は動かないわで。
輝元が関が原に出陣していたら勝敗は逆になっていた。
爺の元就が心配したとおりになってしまった。 まあ、これは筋肉マンに例えるなら
カナディアンマンとスペシャルマンがお互いの健闘を称えあってるようなモノでね。
何と言うか、うさんくささと恥ずかしさのオーラで溢れていて近づきがたい感じがしますね。
石田家の子孫が青森まで逃げたのも頷ける話です。地元じゃ暮らせないだろうからね。
こういうのは一流所は絶対に出てこないからね。毛利家ですら出てこないからね。 これは和解とか誰も期待してないだろ?やはり合戦だ。 >>43
秀次を処刑したこと自体が、人心の離れるきっかけだったんだろうよ でも、徳川家康もまさか小早川秀秋が味方になるとは思わなかっただろう
小早川秀秋は木下家の出で、おねの親族で秀吉の養子の豊臣の一門衆だからね
小早川秀秋が裏切るような豊臣家だから滅びたと言えるね
>>60
小早川が動かないのは仕方がないけど、総大将の癖に吉川が徳川方になっているとかね 大名家の子孫なんてはっきりいってほとんど他人だろ。お家存続の為に他家から養子入れまくってるしな。小早川秀秋にしたって元々小早川とは関係ない秀吉の血縁だし 小早川と毛利の関係は、隆景が死んでからは切れたも同然。
隆景の遺領三原の相続を巡ってはそれこそ関が原の主役輝元が
光成を交えて、秀元と広家の間で毛利家を挙げての悶着を起こ
してしまった。光成・輝元のボンクラコンビゆえの騒動だった。
養子ゆえ若さゆえに大人しくはしていたものの、結局家康が仲裁
したこの欲得づくの遺産争いに愛想を尽かすべきなのは秀秋の側だ。
秀秋はさらに、受け継いだ家督の筑前領を隆景没後の慶長3年に
一時没収されて、後釜に収まった石田光成に家臣は奪われるわ、
隆景死去や減封やで離反した譜代家臣が毛利へ帰参するわ浪人
するわで、秀吉死後に再度筑前を復領してくれた家康への恩義こそ
あれ、慶長5年の関が原で西軍に組みする動機などない。
伏見城攻略に加わったのは欲得絡みか惰性による若さゆえの過ち。
元が主家筋だから光成の下僕扱いには耐えられるはずがない。
”秀秋”の名が関が原で有名になったとはいえ、隆景が死んでから
岡山藩主になる前までの短い期間だし、それ以前の”秀俊”の方が
今でも一般には認知されやすいから、”羽柴秀俊”と呼ぶべき。
小早川は秀俊の為に廃嫡され毛利に復した秀包の子孫が継ぐのが当然。
石田家との間に遺恨などもとからない。 なんで西軍の総大将を宇喜多が
やらなかったんだ?宇喜多なら朝鮮
出兵で実戦経験あるし石高や身分
からしても最適だったのでは?
毛利なんかは中立守らせておけ
ばよかっただろ。 関が原では宇喜多秀家が一番頑張ったのに影薄いのよね
なんだろう 処刑もされてないし ただのいい人で恨まれる人でもないけど影は薄いと >>32
価値とかあなたが決めることじゃないでしょ >>69
毛利が自陣営にいることにしたかったんだろうな
求心のために >>69
徳川250万石。
西軍五大老の上杉100万石と宇喜多50万石を足しても勝てない。
徳川を上回るには毛利の150万石が必要。石高が一番高いもんが総大将になるのは当然。
元はと言えば油断のならない徳川に豊臣本家以上の250万石なんて石高与えた秀吉が悪い。 関係者のフリしてドヤ顔企画w
主催者のアタマがおかしいのだけはわかってたw
ゴミ映画w >>63
秀次いたら家康は天下取れなかった。
秀次はそれほど欠点あった訳じゃないしそれなりにやってるほう。
あと秀吉も秀頼の後見人になれる
人は秀次しかいなかったんだから
秀頼は別家を立てさせ公家にでも
して家継がせてればよかった。
井伊家を2つに分けたように >>72
大阪の陣で真田以上に奮戦した毛利・明石も元は宇喜多家の重臣。
しかし後世の人は真田を語れど毛利を語らず。 >>75
関東移封をエサに潰すつもりだ
ったのでは秀吉は?移封断れば
織田信雄みたいに改易できるから。
ところが家康がアッサリ受けた
もんだから秀吉も目論見狂った >>26
小早川秀秋が決めた訳じゃないからな
有名な弁当話があるだろ 大坂の陣で逃げ切った石田と泳いできた宇喜多が合流しさえすれば… 三成の子孫のおじさん、なんか見た目もイメージのままの三成っぽい。 >>72
島津が目立ち過ぎた。宇喜多の
奮戦より島津の退却が凄かった。 >>32
そもそも小早川隆景からして乗っ取りだし
最初の小早川さんからしたら誰それな話 清正や正則にしたら、
夏の蒸し暑い日中、汗まみれになりながら足を棒にし身を粉にして
得意先の難癖に頭を下げてまわり、理不尽な要求をしてくる新規のご機嫌を取って開拓し、
肝臓に負担をかけたくないけど連夜接待を欠かすわけにはいかず、
やがて女房や子供と疎かになり、いつしか家庭は不和に
それだけ会社の為に頑張っても、評価されるどころか、
社長に気に入られている、自分は優秀だと思ってる
年中空調完備の社内でのんびり仕事してる管理部門の三成が、
嫌がらせをしてくるわ
「つらいわー俺が一人で豊臣産業を支えてる、他は無能ばかりでつらいわー」
とか嫌味を垂れるわ
普通に殺意わくだろw >>26
毛利はたまたま藩政改革に成功し
たからな。毛利に限らず西日本の
藩は教育に金かけてたとこ多いか
ら優秀な人材が出てきたのが
幸いした 近所の石田さんは三成の子孫と称してるけど、
この石田さんはどこの人だろ? >>85
一応当主の妹を嫁にして、病弱な
義兄から家督相続したカタチにし
てる。それに吉川家の乗っ取りに
比べたら血生臭くない >>87
三成の場合ノホホンしてるタイプ
じゃないだろ。そのタイプなら
そもそも出世できてない。長束の
ほうが上になってしまうわ。 >>38
家康の天下取りを華々しく彩るために江戸期にいろいろ脚色しまくって
現在の形になったのではとも言われ始めてるな。 >>87
史実の話をすればいいだけのところを、
なんで下手な喩えをしたがるのか 小早川の子孫が本当に謝るべきなのは、宇喜多秀家の子孫か、大谷義継の子孫じゃね 毛利も幕末まで吉川を分家扱い「以上」にはしなかったという時点で
相当だったのだろうとw >>95
石田なんかを美化したがるおまえみたいな奴に、わかりやすく説明してやってんだよ
同時代人に嫌われまくってた、それが真実 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています