坂本龍馬が商人だというのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で作られたイメージだ。
龍馬が武器商人だというのはナンセンス。

では亀山社中の実際を見てみる。

亀山社中は慶応元年(1865)に神戸海軍操練所が閉鎖されて行き場を失った土佐等浪人集を、勝海舟が薩摩に預けたのが始まり。
薩摩藩は文久3年(1863)12月24日、長州の砲撃をうけて幕府から借りて運行していた長崎丸が沈没、薩摩藩は操船技術を持つ藩士の大半を失っており、操船技術を持つ彼らが欲しかった事情がある。
ちなみに亀山社中というのは後年そう呼ばれたもので、当時は単に「社中」と言った。
慶応元年(1865)5月、龍馬は西郷とともに薩摩に行き、薩摩藩の意を受けて薩長の連携を模索するため5月16日下関へ出立。
一方、5月26日、近藤長次郎、高松太郎らは薩摩藩家老小松帯刀に従い長崎に行き、長崎亀山に社中を創立する。
龍馬は下関へ着く前に熊本や大宰府に行き、5月23日から28日までは大宰府に滞在し五卿や黒田藩士や浪士と会っていて亀山社中の創立には立ち会ってない。
社中は薩摩藩の船の運行を担当し、社中の給料は薩摩藩が支給する薩摩藩に属する浪人組織であって、独立して商売する組織ではなく、明らかに株式会社とか商社とかいうものではない。
薩摩藩が購入した武器等を運搬することが仕事で、武器の購入をしても薩摩藩の指示のもとで行った。
龍馬は海軍操練所出身浪士団のリーダー格であったが、亀山社中の運営の実務を担ったのは近藤だったようで、龍馬の亀山社中創立への関わりや社中での役割は分かっていない。
龍馬は亀山社中の社長業などしておらず、薩摩藩の意を受けあるいは薩摩藩と連携して九州・下関・上方で諸藩の士、浪士相手に政治的周旋活動をしていたようだ。
慶応元年(1865)閏5月1日龍馬は下関に到着し桂小五郎と面会。西郷との会談を承諾させたが、肝心の西郷が来ず会談は流れた。
激怒した桂だったが、武器の購入ができずに困っていた長州の事情があって、龍馬と中岡慎太郎に武器購入に薩摩の名義を貸してもらえるよう依頼した。
そして井上聞多と伊藤俊輔が長崎に派遣され、亀山社中の千屋虎之助・高松・近藤らの手配で小松帯刀と面談、薩摩名義の武器購入につき承諾をもらう。
井上・伊藤は高松の紹介でグラバーと会い、銃や蒸気船の購入に成功する。
両名の後日談その他の資料でみると井上・伊藤はグラバーから直接武器を購入していて、亀山社中が長州藩の武器購入に介在している痕跡はみられない。
ところで長州藩が薩摩名義で購入した蒸気船ユニオン号を薩摩藩は引き渡しを拒否し、薩長間が緊張する事態が発生した。
ここで社中の近藤が薩摩の、龍馬が長州の意を持ち寄り協議し、当面は船を社中が薩摩のために運行し、幕府との戦争が始まったら長州に引き渡すという合意が成立した。
司馬はこの辺の話しを拡大して自分の小説では、亀山社中が商社であり龍馬が船を乗り回し、長州のために自分の商社で武器を購入することによって薩長同盟を成し遂げるきっかけを作ったと話しを膨らませた。