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11月17日 18時56分

かつての樺太、今のロシア極東のサハリンで、終戦の1週間後に旧ソビエト軍が行った空襲の様子や被害状況などについて、旧日本軍の大本営が記録した文書が初めて見つかりました。

「日本最後の空襲」と言われる空襲の実態解明につながる貴重な史料として注目されます。


この文書は、昭和20年8月に大本営が連合国側に宛てて作成した記録文書で、東京にある防衛省の防衛研究所で見つかりました。

文書には、終戦から1週間後の昭和20年8月22日に、旧ソビエト軍の飛行機9機が午後3時半から午後4時半にかけて樺太の中心都市だった豊原、今のユジノサハリンスク市で銃爆撃を行ったことや、避難していた民間人5000人〜6000人のうち、400人〜500人の死傷者が出たことなどが記録されています。

また空襲が停戦合意のあとだったとして、「非人道的行為で平和に禍根」と非難しています。

樺太での空襲は「日本最後の空襲」と言われていますが、関係する史料はこれまでほとんど見つかってなく、詳細な被害状況や具体的な死傷者の記録が見つかったのは初めてで、空襲の実態解明につながる貴重な史料として注目されます。

樺太の元住民で作る全国樺太連盟は「戦後70年以上たっても空襲の史料はほとんどなかった。大変貴重な文書だ」と話しています。

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