>>59
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それはちと短絡的な考え方だと思う
まず保守を自認、あるいは擁護する+民としては
保守思想の大家バークにモノの考え方、或いは心の構え方を学べば
偏見は大事なものだからまず肯定しながらそれがどうして必要なのかを
考えなきゃいけない。信条的にも行為的にもね。
偏見は良くないよね、でも自分にも気持ちとして備わってるから行為だけ×とすればいい
というのは、人種や性に対する偏見は悪だーと言ってるサヨクと思考的・精神的構造は変わらない

まず単純的に大雑把に言って、思うのはアリで行為はナシというのは筋が通ってない
細かい話をすれば場合によってそれは理解できるとは当然なる
だが例えばゴミが部屋に沸いて、不快だが殺さないは明らかに変だとなるし、
普通は殺虫して当然となる
ゴキぐらいなら放置しても危険が無いと考えれば、不快だねで終わる。これはまず感情論としての話
次に理性的な観点で言えば、自分にとって身体・生命の危険となるもの、
それが身近にあって確かにその危険を感じつつも、それに対して何も対処しないというのは
結果として自分が痛い目に合うということ、最悪死に至る。
これは対処するのが理性に適うとなるだろう(何が危険か個々のケースをイメージすればいいだろう)

で、自分から距離を置いて何もしなければOKという意見だが、
ここには「悪とは「する」ものであって、「しない」ことは悪でない」という根本的な誤解がある
相手が近づいてきた場合はどうする?ここでの近づくというのはもう少し広い意味として受け取ってくれ
つまり何かしらの理由で向こうから関ってくるという事だ
こちらが偏見によって距離を置こうとすれば(関わらないようにすれば)、
近づいてきた相手はそれが偏見によるものだと理解して、
それに対して「差別だ!偏見だ!」と言って強制的に関わりを持ってしまうことになる
これは有り得ないと君は考えるか?
ではいじめ問題についてその現状から考えてみるといい
いじめとは、相手にとって嫌なことを「する」だけじゃない
「無視する」或いは「ハブく」といった、嫌いな相手に対して関わらない形を取ることが
いまやイジメとされる時代だ
これがLGBTその他の問題でも同じような扱いなるのは想像に難しくは無い

そもそも、ある対象に対して偏見を持つのは自由だが排除的な行為はダメだというのは
その対象が無害だと言ってるようなもの
さて有害・無害、これも悪とは「する」ものであって「しない」は悪にはならないという考え方と関係してくる
こうした時間的・空間的にも狭い物の見方、これをこと細かく指摘してやりたいとこだが、
時間が無いので終わりとする

最後に言いたいのは「偏見は間違い、悪」等と理解してる時点で既に
現代に亘って広まったサヨクの毒に頭を乗っ取られてる
それこそ「しない」事も含めた行為としても間違った新たな偏見だ