【大分】「古墳が示す別府の勢力」 別府大文学部・田中教授「豊後全体を支配するレベルの有力者が存在した可能性示す」
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古墳群について解説する別府大学文学部の田中裕介教授
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実相寺古墳群を構成する鷹塚古墳(中央下部の盛り土部分)と太郎塚・次郎塚古墳(中央上部の林の部分)
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鬼ノ岩屋2号墳の装飾壁画
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別府市教委は12月3日午後1時から、「鬼ノ岩屋・実相寺古墳群」の国史跡指定を記念したシンポジウムを市公会堂で開く。市内北部に広がる古墳群の研究成果を通じて、知られざる古代・別府の姿に迫る。古墳時代に詳しい別府大学文学部の田中裕介教授に、その一端を聞いた。
鬼ノ岩屋古墳群は1号墳と2号墳で構成されている。江戸期には既に鬼ノ岩屋の呼称があるなど古くから知られ、1957年に国史跡の指定を受けた。加工した石を積み上げた石室内の装飾壁画が高く評価されている。当初は古墳の規模がはっきりしていなかったが、その後の発掘調査によって2号墳がただならぬ大きさの円墳だと判明した。約37・5メートルの直径は同時代の大分県内で最大だ。
実相寺古墳群は今年2月に追加指定された。隣接する太郎塚と次郎塚の両古墳(円墳)は以前から親しまれていたが、中心となる鷹塚(たかのつか)古墳は存在こそ知られていたものの詳細は不明だった。近年の発掘調査の結果、7世紀初頭の大分県で唯一となる方墳(1辺約25メートル)だったことが分かった。
二つの古墳群は別々の勢力が同時期に建造したとみられ、まず6世紀後半に鬼ノ岩屋2号と太郎塚・次郎塚が造られた。続けて、6世紀末〜7世紀初めに鬼ノ岩屋1号と鷹塚が登場する。
古墳の構造や出土品には明確な違いがある。鬼ノ岩屋は筑後地方などで発達した装飾壁画や、阿蘇地方にルーツがある石屋形(いしやかた)という形状のひつぎなど、九州独特の要素が多くみられる。一方で実相寺の方墳は、近畿地方を基盤とする大和政権の権力者である推古天皇や蘇我馬子らが葬られたとされる墓と同じ形状で、九州では数少ない。朝鮮半島から畿内へと運ばれていた貴重な馬具などが出土していることも大和政権との結び付きをうかがわせる。
巨大な鬼ノ岩屋2号墳と、大和政権が認めた階層しか造ることができない方墳の鷹塚は、いずれも豊後全体を支配するレベルの有力者が別府に存在した可能性を示している。春木川の南北約1キロという立地の近さから、両者は同系統の一族で補完関係にあったのでは、と推測している。
大分県の古墳時代において、別府に有力な勢力が登場するのはこの時期だけだ。大和政権にとって、海路で畿内とつながる別府は南九州への交通の要衝に当たる。軍事や経済の拠点として重視された結果、短期間ながら豊後の代表を担うことになったのかもしれない。当時は、儀式などを行う役所のような施設があった可能性もある。ただ、別府に存在した勢力の具体的な姿は、文献が見つかっていないため判然としない。謎はまだ多く残されている。
シンポジウムでは、別府大学文学部准教授の上野淳也氏が、実相寺古墳群の発掘調査について報告。関西大学非常勤講師の今尾文昭氏が「飛鳥時代の幕開けと大型方墳の出現」の演題で基調講演。上野氏、今尾氏、別府大学名誉教授の後藤宗俊氏、別府大学文化財研究所研究員の玉川剛司氏が意見を交わす。司会は田中教授。入場無料。
11月29日大分合同新聞朝刊
https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/11/29/JD0056388446 >>2
アレは
・戦中戦後間もなく、洞窟で原人?骨発見
・今の技術で再検査すると「戦国??江戸時代」
・藤村新一の東北旧石器を猛烈に支持していた文藝春秋が
「九州も捏造だろ、やっぱり会津は正義なのだー」と連呼
・研究者が自殺
でした。
犯行をやった、中村彰彦という会津小説家は逃げた。会津小説家は本質的に卑劣。 >>1
東大のせいで
いずれ上杉謙信や武田信玄もそう言われちゃうのかな?
【地域活性化】と【経済が回っているのに】
潰して。
その頃には植民地なのかな? >>5
大友が来たのは源頼朝のころ。
それ以前は宇佐八幡宮の大神家。 ▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』
▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』
▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』
▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』
▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』 有力勢力が消えたのは鶴見岳の噴火のせい?
結構活発に爆発してた時期だよな? 宇佐神宮の半端な捏造のせいで宮崎が哀れ
いまさら神話の舞台は鹿児島でしたと言われても困るだろう 文系はまず結論から入るから何言われても寝言と思ってればいい エレキバンで有名なとこだよな
そんな大昔から文化圏だったのか >>11
ウエツフミってやつか?
日向族と隼人族の争いとか古事記は隼人族の捏造とか海幸はいなかったとか?
トンデモじゃないのかw 俺は邪馬台国は太宰府に有ったと思っている、北九州は大陸との交易地だし、筑紫平野を抱えた温暖な土地で大勢の人口を養われる、
大和より遥かに強力な豪族がいてもおかしく無いだろ、大陸からの文化や交易品を考えたら 以東の国々が何方に着くか明らかだろ、
太宰府は 日本一の城塞…水城に護られている都だからね、
都は一度造られたら簡単には失くならない事を考えたら、此処がこの地方を治めていた要の土地だっと思うんだ、 >>19
ウガヤフキアエズ王朝は邪馬台国より歴史が古い
トンデモ扱いされているが、意外に一致している事象も多い 九州に様々な勢力があり、もしかしたら実態としては九州の方が日本の主府だったのかも知らんよ。
しかし、それはそれとして、邪馬台という名称は、大和の当て字だ。
それはちゃんと隋史に書いてある。
なんで魏史は信じるのに隋史は信じないのだ。変だろ。 >>22
九州説に都合の悪いデータや文献は無視か捏造扱いなんですよ(苦笑)
実際、話がまるで通じない視野狭窄な人も多いし >>22
ヤマト ヤマは山だろ、トは先とか向こうとかの意味だろ、
山の向こうとか山の方の地名じゃないかな、
イセ…伊勢も各地に有るし吉備や日置も各地に有る、
奈良には九州と同じ地名が沢山、地名の発音が似ているだけで即断はできないよ、
神武東征で吉備から生駒山麓まで半月掛かっている…浪速が有ってでだ、記紀が書かれた時代には不思議では無い時間だったと思うよ だから書かれているんだ、
大和から筑紫までなら二ヶ月掛かるんじゃないかな…浪速は無いからw、
情報伝達や軍の移動を考えたら…関門海峡も有るし、大和から筑紫をコントロールできないよ、 古墳は、紀元前1世紀から16世紀まで創ってた
17世紀に新設したのが百舌古墳群 >>25
前方後円墳に限れば3世紀から7世紀始め。
前方後円墳は大和だけの特徴で近畿から広がって、6世紀には朝鮮半島南部にもできた。
大和勢力の拡大を示している。 >>23
日本書紀に神武天皇には西から来たと明記してるから、九州政権だった大和が近畿に移った事に何の矛盾も無いが
まあ問題は古代天皇が百年以上ある在位の期間の矛盾だけ。 >>26
追記。前方後円墳は、円墳の前に四角い祭壇を加えたものと考えられる。
一段高くして、そこで儀式を行った。 >>27
出発に関する記述が簡素。
戦国時代の北条早雲のように、自分の意志で東に移動して成功したケースかもしれない。 まあ隋書には、飛鳥時代の日本について
邪摩堆に都す、いわゆる魏志の邪馬台なる者也、てあるから
隋書が正しければ邪馬台国は近畿ではあるんよな
隋書には冠位12階も出てくるから、ほぼ邪摩堆は大和国とみなしていいだろうし >>7
それ要するに朝鮮を倭人が席巻してたってことなんでは >>32
人が一緒ってのも考えにくい感じ
巻向にある前方後円墳は邪馬台国の時代以前からある(ホケノなど)
そこから、全国に広まってる感じ(福岡なら那珂八幡古墳など。これが邪馬台国のちょっと後くらい。箸墓とあまり変わらないくらい)
こういった前方後円墳の分布を見る限りじゃ、邪馬台国の少し後の時代から、近畿勢力が九州に勢力を伸ばしてる感じだ
巻向遺跡は、巻向近辺に都を置いて、各地を征伐したという古代天皇(崇神天皇や垂仁天皇、景行天皇)の
都跡の可能性が結構あるんじゃないか、と思う
そうだとすると、邪馬台国が東遷してヤマト朝廷になった、てのは無理がある気はする
東遷があったとしたら、邪馬台国より更に古い時代なんじゃないか、なんて思えたりする
隋書の邪摩堆に都す、云々は九州の山門と勘違いしたのかも(山門という地名は日本書紀に出るくらい古い)
まあわからんけど >>27
神武東征は神武漂流記だと思っている、
日向生まれの一発屋かその子孫が東に営業を掛けて難破
陸路で故郷に向かうが大和で拾われて居着いた、、
その子孫(天皇)の先祖の冒険記が神武東征記、 地震と噴火で農作物がパアになり、火山のない今の大和に逃げ出したんだろ
阿蘇や九重、由布岳に雲仙辺りも活発で、火山灰まみれが何年か続いたんで集団移住 >>7
近畿に大和王権を作った連中が朝鮮渡来なんだろうな
朝鮮半島で勢力争いに敗れた王族なり豪族が日本海を落ち延びて九州に上陸しそこから東征しつつ大和に落ち着いて大和王朝を築いたのが今の天皇の祖先
何の根拠も知らないけどそんなんが一番ありそうに思える >>38
ソレだけの兵力をどうやって持ってきたんだ、
大陸との交流は卑弥呼の時代とかでなく もっと何千年も前からあったと思うよ、
丸木舟は縄文時代の前から有ったから、行き来してたと思う、情報は入ってきてたはずだし、だから大して文化程度は変わってないと思うよ、
小集団がきて 簡単に統治できるとは思わないんよ、
邪馬台国 畿内説の弱点は大和盆地だと言うことだよ、穀倉地帯の播州平野、濃尾平野を避けて交通も不便な大和に なぜ都をおいたのか、、が一番の謎やね、 古代日本には大きな争いの記録がないんだよ、有れば武勲を誇示するために針小棒代に書くはず…記紀に載ってるはずだろ、無いんだよ、ソレと争いに付き物の城塞都市も無い、
日本列島は大きな争いごとの無かった 平和な世界だったんじゃないかな、争いごとの無い世界…漁労民族、
大和に都を移したのは大陸からの圧力で 太宰府では維持出来ないとして大和に引越した…引き籠もったから、なんだと思う、
西日本の族長たちが 天然の要害である大和に逃げ込んだ、、大和政権の起こり、 時代は下るが
大友初代赴任も別府朝見神社だからね
要所だったのだろう >>33
あのな、「前方後円墳」なんか、なんの根拠にもならへんの >>33
文化の広がりと支配権の広がりは別個のものだからな
世界で英語が使われてても、英米が支配してるわけじゃないし 別府ってなんの事なん?
北別府
南別府
東別府
西別府
別府ガルディオラ >>1
鬼ノ岩屋古墳群は場所が良いね
由布岳の噴火や土石流などの自然災害の影響を受けにくそう
別府の中では最高の立地に見える
実相寺古墳群は別府の中央部だけど自然地形的には少し微妙 >>36
神武の出発の記述については、そんな緊急性や悲壮感がない tp://minna-hiroba.com/mybook/?p=2197 その時代は、豊後という地域の概念もないと思うけどな。 北九州はいっときやまと近辺より強かったからね 大陸との戦闘でグダグダになってしまった >>30
隋書にでてくる位階の順序は仁義礼智信の順。
大和が定めた冠位十二階の位階の順序は仁礼信義智の順。
二つは異なる国の制度。
後、象徴的な山として阿蘇山について述べていることからも、
場所は九州だろう。 >>39
盆地に都をおくのは、山で国内外からの外敵から
身をまもるためだ
京都も同じ理由だろう
気持ちが国外に向いているときは港町の大阪に
遷都した >>51
守る為に大和盆地に引き籠もったのは間違いないけど、外部に十分な支配力を担保してないと 大和盆地に押し込められて朽ち果てる事になる、
その為には 大和盆地に引きこもる前に何処で統一をしたかだよ、ソレが邪馬台国で北九州だろうと、大和ではソレだけの国力が無い、 そりゃー、この時代も日本中に人がいたからな
大分にも文化はあっただろうよ
だけど、最近のいろんな情報から
俺も関東に大きな勢力があったんじゃないかと思うようになったな
それと、邪馬台国なんて無かったという説も信じるようになったな
あんなの中国の歴史書に振り回されすぎ 発掘できない古墳があるのは何で?
都合が悪い事でもあるのかね? >>54
いや大陸文化が入ってこない関東はその頃ド田舎だから。
稲作が始まるのも北部九州に800年くらい遅れてる。
強大な権力を持つ王の概念すらないだろ。 >>57
いやいや、
人の動きとしては、中央アジアから北海道経由で日本に入って来て
南下して、三内丸山とか東北で居着いて
その後、さらに南下してきた説が正しいと思う
もちろん、沖縄や南西諸島からの流入もあるだろうが
あなたの説は、以前の説
必ずしも稲作が全てじゃないからな >>55
発掘するって事は遺跡を破壊するって事だからな。
今はなるべくそのままにして将来、科学技術がより発達してから調査した方が
もっといろんなことが解明できる。 2003年頃、確かに別府たんは英雄だった、2chで。 弥生時代に東北地方から北部九州に万単位の人達が移り住んだことが、
出土した土器から判明してきたね。
縄文期に最も先進的だった東北地方の気候が変わって、
九州や関東に南下したってのはあるだろうね。 最近は坂本龍馬や会津観光史学などへの批判も多くなっているし
変に盛った話は排除されるのが正しい道
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>59
別府最古の店「うきうき孫悟空」だろ。
まだあるぞ。
2回転の口抜き7K、オプションの乳首舐め 1K >>52
巨大な古墳作るのにどれだけの国力が必要だと思ってるんだ。
なんで大阪に巨大な古墳がたくさんあると思ってんだ。大阪が中心だったのは間違いない。 古墳時代の頃にはそうだろうな
だけど、関西地域がずっと栄えていたわけでは無い
もっと前の時代を見てみれば良い
三内丸山だけでない
北陸や出雲など、巨木建築が栄えていたのは
日本海側なんだよ
これは面白いと思わないか?
当時の日本列島には実は、全国に人が住んでいた
しかも日本海側に勢力が集まっていたのでは?
今の逆、太平洋ベルトとは全くの逆
もう、九州や西日本だけが栄えていたという考えは止めるべき 邪馬台国太宰府説も一理あるんだよ、どう言う事かと言うと女王卑弥呼は
宝満神社の祭神の玉依姫と思っている、宝満神社の総本社は太宰府市の宝満山の
麓にある宝満宮だ、玉依姫は名前の通り水晶玉に差し込む光の加減で
占いをした巫女だから卑弥呼と同一人物だろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています