調べたら毎日新聞・朝日新聞の富岡盛彦の訃報記事で、追加の情報が書かれていた。

毎日新聞では
「富岡盛彦氏(富岡八幡宮宮司、元神社本庁事務総長)」と紹介されていた

一方朝日新聞のデータベースを検索したら富岡盛彦について
「鹿島神宮宮司、神社本庁事務総長などを歴任した」と紹介されていた。

1932年4月17日朝日新聞東京夕刊1頁によると「宮司異動(16日)」の内容として
「官幣大社礼幌神社宮司 富岡盛彦」(これが同一人物なのか不明)

1933年3月7日朝日新聞東京朝刊7頁に
「『鹿島立』の語源 強く正しい国民性の表現 後七時半講演 富岡盛彦」とあり、
富岡盛彦氏の講演内容が長く紹介されている。

1943年7月10日朝日新聞東京朝刊3頁
「滑空始翔地に記念碑」
>航空決戦へ澎湃と盛り上がる強国の熱病に応へ
>鹿島神宮宮司富岡盛彦、男爵奈良原三次、
>航空局航空官榊原茂樹、文部省体育官松辯二ほか八氏が発起人となって
>今月末茨城県鹿島郡軽野村理想郷八光台に
>「大日本滑空始翔之地」記念碑を建設することとなった

まあ割と国家神道の中心にいた人なのは間違いないが、
富岡八幡宮宮司となる前から「富岡」と名乗っているから、
まったく富岡八幡宮と無関係の人間とも思えない

鹿島神宮宮司から富岡八幡宮宮司なら、「左遷」とみなせなくもない