【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」見える化 桜井市、建物跡に目印設置へ 900万円目標、ネットで募金★2
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2009年に大型建物跡が発見された際に柱跡に建てられた目印。
今回の丸太のイメージだ=奈良県桜井市の纒向遺跡で2009年11月10日、貝塚太一撮影
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現在の大型建物跡。それと分かる目印は何もない=奈良県桜井市辻で2017年12月6日、山本和良撮影
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女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地の一つとされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡)で、「卑弥呼の宮殿跡」と注目された大型建物跡などの建物遺構について、市は位置が分かるように丸太を設置することを決め、インターネットで寄付を募るクラウドファンディングによる資金集めを始めた。事業費の4分の3に相当する900万円を目標に、来年2月末まで協力を呼び掛ける。【山本和良】
纒向遺跡は、3世紀代を中心に営まれた大規模集落遺跡で東西約2キロ、南北約1・5キロの範囲に及ぶ。2009年に見つかった大型建物跡は3世紀前半のものとみられ、同時期のものとして国内最大規模。前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓の説もある。
周辺は、他にも弥生時代末期〜古墳時代初めの古墳など貴重な史跡が豊富で、年間を通じて考古学ファンら多くの見学者が訪れる。しかし、纒向遺跡を紹介する施設はなく、大型建物跡に至っては埋め戻されている。このため、「様子が分かるようにしてほしい」などと訴える声が盛んに市に寄せられていた。
そこで市は、今年度中に大型建物跡などの柱の跡に、目印になる杉の丸太(直径15〜32センチ、地表の高さ1メートル)を設置することを決めた。木材は、桜井木材協同組合の協力で無償で提供してもらえるが、全部で65本を設置する費用などに約1200万円が必要。文化財関連の財源確保に頭を悩ませる市は、ネットのふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」を活用することにした。寄付はふるさと納税制度の対象となり、税控除が受けられる。
協力者には、市纒向学研究センターが発行する機関紙「纒向考古学通信」を3年間送付し、遺跡の調査や保存整備の状況などを随時知らせる。
市教委総務課は「建物の柱を目に見えるようにすることで、古代史最大の謎解きを体感してもらいたい」としている。
毎日新聞 2017年12月8日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171208/ddl/k29/040/544000c?inb=ra
前スレ:2017/12/09(土) 17:13:37.52
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1512807217/ 大和はもともと銅鐸製造のナガスネヒコの都するところだった。
ナガスネヒコの源流はインドのシュリナガール地方の一族。
シュリナガール地方はもともと銅製品を製造していたところ。
シュリナガールの語順を変えて「長髄彦」(ながすねひこ)と呼ばれた。
のちに九州勢が侵攻して以前のすべてのものを地中に埋め痕跡を消し去った。
後に平安のころ地中から出土した銅鐸が何ものか分からなかった. 人は記憶型と思考型に大別できる
写真の奥に見える駅が秘境っぽいんだが・・・・・ >>5
田布施システムって、ウソがばれて失敗した反日デマだよ。
http://blog.goo.ne.jp/sagastudents
私より必死じゃないですか。私はレスしているのだから、あなたの方がポストが多いですよ。
田布施システムは佐賀藩の学生の写真を使って長州藩だと言っている。
しかも、そのとき東京にいた明治天皇がなぜか長崎の写真に写っていると言う。 纏向遺跡では、大量の桃の種が出土した。
考古学者は、相変わらず神仙思想の不老長寿ガー、だが。
桃の種は漢方薬の桃仁といって、後漢末から三国時代の頃に成立した神農本草経にも記載されている。
効能は、生理痛などの婦人病。
要するに纏向には、当時の大陸の最新医学を知る立場にあった婦人病でお悩みの女性がいたということ。 900万で良いならすぐに集まりそうだな
俺も一口入れるかな
面白そうだ 魏志倭人伝って中国人が中国人向けに作った文書であって、日本人の感覚に合わせて作った文献じゃないよ
東夷は、旧満州、朝鮮半島、日本を指す言葉であって、同じ移動の仕方、移動スピードで書かれてあるんだよ
日本だけ特別に書いてあるわけじゃない。移動の仕方は1週間のうち3、4日は休みながら進む超スローペースで
実際に日本に上陸してからも北九州の村々を移動してるだけで、ほとんど移動してない
そこから、本州にワープするわけないジャンよ 九州のヤマタイ国かそれを滅ぼしたクニが東遷してヤマト王権を樹立したんだと、何度言ったら 畿内説=学問、すでに通説
九州説=エンタメ、素人が言い張るだけの俗説 吉野ヶ里の展示室で畿内説を必死に唱えてる爺さんが
そのあと併設の公園で立ち小便しるの見たことあるぞ >>11
調べてみたが生理痛に効果があるのは
種の中の仁じゃねえか。
遺跡の写真見ても種は割ってないぞ。 >>4
この時代、朝鮮民族は地球に存在しない
朝鮮民族が誕生するのは後の時代 >>5
ネイバーのまとめは良かったぜ
その説の出版社って在日が社長なんだよね
笑ったわ
>>1
900万でなにするんだ?看板建てるのか? >>14
半分当たってるね
邪馬台国は、曹爽のクシャーナ朝に対して「司馬懿の邪馬台国」を演出するための作為
現皇帝の祖父を誉め称えるために、邪馬台国を大国に仕立てなければならなかった
中国の歴史書ってのは大抵これ
今でいう『歴史的事実』が書かれてるわけではないことに注意 >>9
秘境だよ
確か単線で、30分に1本くらいしか電車がない >>28
畿内説だと、一応>>1の奈良県桜井市の纏向が第一候補 >>9
>>30
JR巻向駅ね?
3両編成、単線ローカルなので通勤時間は結構混雑してる。扉が開くのは1両目と3両目のみ
夏の車内は扇風機が回っていて風情たっぷり(*^_^*) >>33
そうそう、待っていても扉が開かない
たまたま観光客ばかりが乗っていたら
ちょっとしたパニック状態になる、、、 巻向は物部一族の墓場やね?
崇神さんのもあるなー(どのお墓も卑弥呼さんのどころかモモソさんのもちがうんじゃね? 初詣に何回か行ったが、三輪山周辺は何であんなに寂れているんだろう。
纒向が卑弥呼のいた集落で間違いないだろうけど。
奈良は地政学に王都になる場所じゃない気がした。
狗奴国と60年近く睨み合い卑弥呼がその間居座ったことが大きかったのかな。
奈良が都になったのは、偶然の産物な気がする。 纒向遺跡を魏志倭人伝の卑弥呼と結び付けなければ、
関心を持たれないという発想が間違い。
まともな古代史に関心をもっっている層にはばかばかしい限り。
一応専門のl考古学者とされる人間が、
径100歩を箸墓古墳に見立てるなど、
結論ありきの妄想というのは、
常識の範囲でも分かること。 ヒントは畿内に邪馬台国はありませんでした。
邪馬台国を知るための手がかりの一つに魏志倭人伝の行程があります。
それを鑑みると畿内はありえはい。
まして発掘品も畿内から出た物に文明的な物は皆無です。
木の棒、石、桃の種、、、ばかりが出てきます。。。
重要な指摘として後円墳が畿内に多いのは九州の王が死んだ際墓場を畿内に選んでいたという説です。畿内は九州の霊園として重宝されました。 >>1
だ・か・ら
纏向遺跡を発掘して、出土した土器の分析を行った纏向研究の権威が
「ここは4世紀の遺跡だから邪馬台国じゃない」
って言ってるのにゴッドハンドするなっての
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku280.htm
>定形化された壺は庄内期の遺構からは出土しない。布留期に制作されたものである。
>
>箸墓古墳とホケノ山古墳を比べると、土器形式の範疇ではほぼ同じである。古墳の型式としては、
>ホケノ山古墳は竪穴式石室ではないので、箸墓よりは古い要素を残しているが、築造年代については、
>小型丸型土器が出ているので、布留式の中で考えなければならない。
>
>結論的にいうと、箸墓もホケノ山古墳も布留式の古い時期(布留1式)の前期古墳であり、これより古くはできない。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hokenoyama.htm
> ■ ホケノ山古墳の年代
>
> 石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が
> 出土したことを述べている。
> 小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
>
> ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、それよりも新しい布留T式土器が出土したことになるので、
> 考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。
> 石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。
>
> 報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちてきたのではないかと、
> 苦し紛れに書いている。
>
> これについて橿原考古学研究所の関川尚好氏に問い合わせたら「そんな馬鹿なことは絶対にありません。」ということであった。
>
> また、石野氏はホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことも述べている。
> このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。
>
> 箟被(のかつぎ)つきの銅鏃が発見されたことにより、発掘当初から、ホケノ山古墳は新しいのではないかと見る専門家もいて
> 問題になっていた。 >>23
amsという計測方法で理系の人の意見無視して布留0を250年にした件のことかのー? >>39の鑑定をした関川氏はこんな人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F
> 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、
> 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。
> 1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。
> 石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、
> 古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。
纏向を発掘調査した纏向研究の権威である関川尚功氏が4世紀だと>>39のリンク先ではっきり述べている
これを無かったことにしてゴッドハンドする畿内説論者の罪は重い >>36
奈良→京都と遷都をしたということは、
盆地という地形を利用して中国などの
外部からの影響や攻撃から逃れたかったのだと思う
もちろん、自然の恵みを存分に受けられて水源も豊富
三輪は山が聖地として重要だったんだろう
明日香に行けば、ここに都を置きたいと思う気持ちがわかるかも
盆地だけれどいい感じに開けていて開放感があり
山や緑も美しい 前方後円墳に注目すると、畿内で一番古いとされる箸墓古墳が布留1式期の4世紀築造(>>39)
いっぽう九州の那珂八幡古墳は布留期より前の庄内期のもので3世紀築造である
九州北部発祥の前方後円墳がその後瀬戸内沿岸や畿内に広まった
ここから見ても当時の西日本の文化が九州北部を中心としていたことが分かる
また九州の3〜4世紀の古墳からは特殊器台が出土しないことから見ても、
前方後円墳が畿内や吉備から九州へ伝わったことはあり得ない
「器台とは?」 テーマ展「大型器台とその時代」展示資料から@
http://www.i-rekihaku.jp/gakublo/jyousetsu/6598
大型の特殊器台は九州で生まれた筒形器台が吉備で発展して出来たもので、更に東へ伝わり畿内の古墳からも出土するが、
九州の古墳でこれが出土するのは5世紀以降の古墳のみ
そのころになってようやく畿内が九州へ影響力を及ぼせるようになったことが分かる
邪馬台国の時代には文化は西から東へ一方通行にしか伝わらなかったというのが出土品が示す動かぬ事実 うむ。
わしもかつて、「水行」とは、那国の河川下流域の中洲に林立する
風俗店(水商売)に通うことではないかと推理したのだが、
ようやく学界に受け入れられる日が来たようじゃ。うんうん。 肝心のアンカー忘れとるがなw
>>46は>>14へのレスれす。 >>41
前スレに貼ってあったこの件だろうね
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm
> 箸墓の年代に関する歴博の矛盾点
>
> 項目2の発表のレジュメに次のように記述してある。
> 「定型化した最古の前方後円墳である箸墓古墳の布留0式に付着する炭化物などを測定したところ、1800BP年頃に集中する結果を得た。
> (中略)日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線と照合すると、箸墓古墳の布留0式は3世紀中頃と考えるのが
> 合理的である。」
>
> しかし、掲載図の日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線を拡大して目盛り線を引いてみると、
> 1800C14BP年は較正曲線と4カ所で交わり、3世紀中頃〜4世紀中頃にしか絞れない。
> 歴博が3世紀中頃の1ポイントに絞るのはまったく根拠がない(下図)。
> http://yamatai.cside.com/katudou/image/270-2.gif
>
> 項目3の発表で、歴博準教授の藤尾慎一郎氏は次のように述べる。
> 「日本産樹木の炭素14年代は、BC2世紀以降については未だデータも少なくそのグラフも上下に暴れる不安定な状態である。
>
> つまり、BC2世紀以降については、未だ実用の段階ではなく、現時点では、炭素14AMS法で箸墓の年代を推定することは
> できないことを意味している。
>
> 歴博は、いっぽうでは較正曲線が未完成なので、弥生終末期〜古墳時代開始期も実年代を決められる状況ではないことを
> 認めていながら、片方においては、まさにその較正曲線を根拠にして古墳時代開始期の箸墓古墳の年代発表をするという
> 矛盾した行為を行ったのである。
>
> これらの点について、歴博との質疑応答で質問した。しかし、歴博からいろいろ説明された内容は、質問に正面から答える形のものではなく、
> 納得できる回答ではなかった。
>
> ■ 箸墓古墳の年代についての安本先生のコメント
>
> 歴博の研究者は、240年から350年までの幅を持った値しか推定できないデータなのに、3世紀中頃というピンポイントで
> 決めてしまい、それを新聞発表した。
>
> 歴博の発表は、箸墓古墳が3世紀中ごろの卑弥呼の墓という前提条件をもって行われた。研究自体は科学的方法を用いているが、
> 発表はまったく科学的ではない。自分たちの先入観の確認のためにデータを都合良く利用しているだけだ。
>
> 畿内説の学者は、新聞発表に持ち込めば成功と考えている人が多い。新聞発表では証明したことにならないので、
> 証明は別に行なわねばならない。
>
> 世間一般の人は国立機関の歴博ともあろうものが、いい加減な発表をするはずがないと思う。
> しかし、実体はそうではなく、かなりいかがわしい発表をしている。
>
> 前々回に講演して頂いた韓国慶尚大学招聘教授の新井宏氏も歴博の発表について次のように述べている。
> 今回の問題だけでなく、弥生中期や、弥生前期の板付Ua期の位置づけに関しても、歴博の発表に自己矛盾が数多くあり、
> 歴博の論理性について、強い疑義を抱いている。
>
> ここに言う自己矛盾とは、歴博の発表した前提条件や資料からは、歴博の主張する結論は得られないという
> 極めて単純なことであり、考古学上の議論とは無関係な論理的な問題である。
>
> 土器付着炭化物と、炭化米やくるみの炭素14年代を比較すると、土器付着炭化物のほうが、炭素14の年代が古く出ることも
> 注意が必要。これは、西田茂氏が江別市対雁2遺跡の例として土器付着炭化物では600年も古く出ると問題提起したものであるが、
> まだ、明快な解決に至っていない。
> 旧石器捏造事件の時と同じように、研究費を配分する人と、研究費を使用する人たちが同じグループに入っている。
> 旧石器捏造事件では、研究費を配分する人があらかじめ自分の説を持っていて、自分の説を支持するところへ
> どんどんお金をつぎ込むということをやった。研究者は配分者の説に沿うように成果を出さないと研究費がもらえなくなるので、
> ますます捏造が拡大し、とんでもないことになった経緯がある。
>
> 歴博の研究は、これとほとんど同じ構造になっている。 卑弥呼の時代の奈良盆地は大和湖の水が抜けた跡の湿地帯じゃなかったか?
そんな時代に大集落が存在できたかどうか? 50
自己解決
湿地のほうが農地に適してるらしい
住居は湿地を避けたら住める >>45
>前方後円墳に注目すると、畿内で一番古いとされる箸墓古墳が布留1式期の4世紀築造(>>39)
>いっぽう九州の那珂八幡古墳は布留期より前の庄内期のもので3世紀築造である
これが馬鹿か詐欺師の与太話と言うことが分からなければ
初心者未満 >>49
較正以前の話で7つくらいのサンプルで標準偏差のピーク2つありますゆーことや(統計処理できるしろものちゃいましたよams結果は >>53
論理的に反論できないからレッテル貼りに逃げる
これが畿内論者の成れの果て
ゴッドハンドだけが頼りというのがよく分かるな >>53
初心者未満なんでわかりやすく説明してくれ >>21
桜井市提供の資料写真では、割った状態のものもちらほら見受けられるが。
それに、桃の種の仁をアーモンドみたいにそのままかじるわけではない。
芍薬や桂皮などと砕いて混ぜて、煎じて飲む。
その処方については後漢末の傷寒雑病論の婦人病の章に記載されている。 >>55
はいバカ決定w
箸墓古墳はいわゆる「定型化古墳」と言われるものの第一号であって
それに先行するのがいわゆる「纏向型古墳」で那珂八幡もそれに属する
違うカテゴリーのものを同じ俎上で比較する馬鹿間抜け
あるいは知っててやってる九州説詐欺
5ちゃんの九州説なんて馬鹿か詐欺師と思っていいwww 邪馬台国は日本より東側にあるドラゴントライアングル内の
卑弥呼の怒りで船や飛行機を座礁・墜落させてる島だろ
トゥームレイダーで勉強したわ >>54
あとホケノ山については2008年に行われた小枝の年代測定結果も4世紀と出てる
2001年の測定結果は誤りだった模様
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm
> 纏向遺跡のホケノ山古墳の年代は、庄内式土器の中葉とされていたので、ホケノ山古墳や纏向遺跡の年代は300年以降であり、
> 卑弥呼の時代とは結びつかないとされていた。
> しかし、2001年に橿原考古学研究所から刊行された『ホケノ山古墳調査概報』で、ホケノ山古墳の中心の埋葬施設から出土した
> 小枝と南西添え柱材についてAMS法による炭素14代測定を行った結果、これらは西暦50年〜150年ごろのものと報告された。
>
> 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、
> これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。
>
> しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。
> 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
> これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。
>
> 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と
> 250〜300AD(13.9%)である。
(中略)
> この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。
小枝資料1のデータ
http://yamatai.cside.com/katudou/image/277-3.gif
小枝資料2のデータ
http://yamatai.cside.com/katudou/image/277-2.gif >>52
まさに記紀に見える日本の美称「豊葦原瑞穂の国」だね。
水稲は湿地の葦と可換の作物だから、稲作民にとっては
湿地こそが約束の地だ。本州の美称「秋津洲」も、
「トンボの島」という意味だしね。
ただし、最初期の水田は水利を得られる(というか、人が水をコントロールできる)
山の際に作られた。平野と山の接するところだから「野尻」であり、
関東では「ヤチ」とも言う。これが九州や畿内で言うところの
「ヤマト(山門・山戸)」なのだな。
古事記に出てくる天孫降臨の際にアマテラスがニニギ持たせた
稲穂を播いたのが、「狭田」「長田」だったというのが象徴的だよね。
これは等高線に沿った棚田の風景で、平野の田ではない。 >>52
>自己解決
いやいやしてないからw
湖って古代奈良湖のことを言ってるのなら
そんなもんン万年前の地質学的年代スケールの話
この辺も年代を無視しての九州説詐欺のネタの一つ 湿地に関連して
畿内ヤマトからは鉄製農具の出土数が北九州の出土数の1/100
柔らかい湿地ならわざわざ高価な鉄製農具は必要ないと >>61
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。
ワロタw
ここで上から学会がー、定説がーと喚いてる人たちは、ハシゴ外されて降りられなくなった人たちなんだw >>64
弥生時代・古墳時代の各地の人口の推定を見るといい
鉄器の豊富な地域が農耕を飛躍的に発展させ
他地域より人口が圧倒的に多かったなんてデータは見たことがない
要するに近現代の
「鉄は国家なり」
のイメージをそのまま引きずってる先入観
・鉄の優位性の過大評価
あるいは・・・
北部九州が他地域より圧倒的に鉄器を保有してたとしても
社会に変革をもたらす程の量ではなかったか
ネットだって理系オタクの趣味として数%しか普及してなければ
社会を変えるファクタになりえないだろ? 邪馬台国が近畿であろうが九州であろうが
かまわないが、
今の近畿説はまったくの素人の妄想に
強引な専門的的な理屈をつけただけだから信用しろというのは無理。
考古学者と称する一応の専門家が妄想に耽るのは、
いかがなものか。 >>14
中国では公的施設や軍隊の上陸工程は一日四十〜五十里と定められていた。
もう諦めろ。決着はついている。 いまだに邪馬台国から大和朝廷の流れがよくわからない。 >>69
いや軍隊の特に障害物等が無い場合の標準的な移動距離が一日三十里(15km)だったんだが
畿内説はゴッドハンドばかりだな
http://ksbookshelf.com/DW/Kanjirin/KanjirinHB6i.html
> 【舍】
> C軍隊の一日の行軍距離の単位、一舎は三十里(約15km)、「一舎ごとに一宿する」ことから
末廬国の記述では前を行く人間が見えないほど草木が生い茂っていたとある
そんな未開の土地では日に数kmしか進めないと考えるのが自然 >>68
「自分は〇〇だが、その立場から見ても△△はいかがなものか」
てな論法は、はたして有効なんだろうか?
いや、俺はどっちでもいいんだが。 ← こんだけ論争してて双方決定打が出せないんだから、これ以上いくらやっても同じだよ。金印なり木簡でも出ないと >>61
ホケノ山古墳からは画文帯同向式神獣鏡も出土していて、それは中国の2〜3世紀に作られたものです。 >>59
残念でした
纒向型で比較しても畿内は新しい
> 石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が
> 出土したことを述べている。
> 小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
>
> ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、それよりも新しい布留T式土器が出土したことになるので、
> 考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。 素朴な疑問ですが
定式化古墳?の箸墓古墳以降に
古い纒向型古墳は作られなかったのでしょうか?
古い職人ずっと古い形式を作り続けてるとかありそう >>71
そもそも九州でも北より南が多い時点で
鉄の万能性が崩壊してるって話だよ
でその北九州も東海に負けて
南九州も東山に負けてる
米で腹いっぱい食えるようになったのなんて近現代の話
当然弥生古墳時代には米以外の複合的食料体系が優位 >>71
熊本を北と南どっちに入れてるかが問題だね。
熊本を入れたほうが勝つ。 >>76
はい詐欺
仮にそれが正しければその場合ホケノの相対年代を動かすべきで
現行の「ホケノが一番古い」という編年をそのままに
全体を年代を降らせるという安本と信者のよくやる手口
本当九州説ってこんなんばっかり >>79
最近ニュースに出ててた熊本市議の恫喝オバさんって卑弥呼っぽいよな。
「そがんこつしたら私の逆鱗に触れると思わんと?」
うーんシビレルw まあホケノ山古墳は
5世紀の堂ノ後古墳の後にできてるからね。
箸墓古墳の定式化後に作られたけど
古い形の古墳だと思います。
たまには最新型より古い形のほうが
好きな人もいるでしょう。 >>80
ホケノが新しいとなれば邪馬台国の時代に纒向には鉄もないし大陸との通交なんか妄想ってことになる >>43
ヤマトは盆地だということはデメリットもある。外に繋がる勢力と組まざる得ない。
卑弥呼の治世60年程を除いて、それは大阪だということ。
いつの時代もナニワ、カワチ、ヤマトはセットだったんじゃないかな。ヤマト単独でどうこうできる立地ではないと思う。
飛鳥時代も明日香と難波。
常にセット。 日本書紀にも天皇は九州から来たと書いてあんのに近畿説とか頑なに拘る学会てほんと利権まみれなんだなな。
九州からの開拓史だろ。
どう考えても古代樹海並の奈良盆地にいきなり日本を支配できる文明が湧くはずねえわな >>75
はいはい残念賞
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm
> ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡と文様がほとんど同じ同デザインの鏡が4面見つかっている。
>
> 出土地 直径 時代 備考
> ホケノ山古墳 φ19.1
> 石川県狐山古墳 φ19.41〜19.56 5世紀後半 ホケノ山の鏡と直径や銘文が近く、ホケノ山の鏡と親子鏡、兄弟鏡か?
> 愛知県大須二子山古墳 φ19.43〜19.53 6世紀中葉
> 出土地不明 φ18.0〜18.5
> 中国江蘇省(くい)県 φ16.5 眼眼眼胎紆 (くい)県は呉鏡の分布する中国南方地域。
>
>
> ホケノ山の画文帯神獣鏡は、直径も銘文も愛知県大須二子山や石川県狐山から出土した古墳時代のものに近い。
>
> 五世紀後半の築造と言われている熊本県の江田船山古墳出土の画文帯神獣鏡もホケノ山古墳のものと文様が近い。
>
> ホケノ山古墳は庄内期と言われているが、このような鏡の分析からは、ホケノ山の鏡は、むしろ5〜6世紀の
> 古墳時代出土の鏡に近く、ホケノ山古墳はそれほど古くないと考えられる。 魏志倭人伝にも、漢書東夷伝にも、奴国が倭国の最果てである事が明記されており、
その倭の奴国の金印が福岡から出土し、ソレがホンモノである事が確定した今、
倭国は北部九州に限定記載である事が歴史の事実として確定した。
魏志倭人伝が北部九州に限定された記載である事を前提に、
密度の濃い発掘を行う事で、成果を上げた方が良いし、
マキムクは魏志倭人伝に記載の無い地域として、
先入観無く発掘した方が、考古学の成果は上がってくるのは間違い無い事だろう。 >>84
もうちょっと広域で見ると、纒向ヤマトjは日本海側のタニハ(丹波・丹後)と組んでたっぽいよね。
日本海側は山陰から北陸まで出雲式の四隅突出型古墳が優越するんだけど、
その中で丹波だけに前方後円墳地帯が突き刺さっている。 だいたい太平洋から伊勢に大陸から渡来人が渡って来たっつうほうが荒唐無稽なんだよ。
よくよく考えりゃそんな航海技術が弥生時代にある訳ねえだろw
伊勢なんてのは出雲の派遣社員なんだよ。
そりゃ困るわな神道の総本山になってんだから >>88
卑弥呼の共立した勢力に丹後半島の勢力がいたと思う。
ただ前方後円墳の意味付けは、微妙だ。
卑弥呼の時代から大分経つからね。
古墳時代になると丹後半島の勢力は、ヤマト政権と対立した可能性も考える必要がある。
前方後円墳がヤマト政権が丹後半島を討伐した結果の可能性もある。 卑弥呼を共立した国は30ヶ国。
それぞれの本国からヤマトの地に派遣された人々が、時を経てヤマトの地で本国と離れた勢力を作った可能性は高い。
博多の一大卒も同じ。本国から離れた勢力ができていた可能性もある。
大きく分けて、ヤマトの勢力、一大卒の勢力、本国の勢力が権力闘争を繰り返しながら、少しずつ全国平定を進め、時に朝鮮半島にも進出していたんじゃないかな。 >>90
> 前方後円墳がヤマト政権が丹後半島を討伐した結果の可能性もある。
なるほど、たしかにその可能性もありそう。
ちなみに俺が>>88でなぜ卑弥呼の時代に丹波と組んでたと書いたかと言うと、
その時代は意外なことも瀬戸内海航路が確立していなかったいう説を
読んだからなのだった(長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」)。
けっこう眉唾ではあるw 倒した勢力を背乗りしたりもしただろうし、古墳時代の状況は複雑。 邪馬台国畿内説は妄想なら何とでも言える典型。
同じ妄想なら九州説の方に分がある。
四国であれ、沖縄であれ、倭人伝でh何とでいえるが、
状況証拠的には九州だが、
決定的な証拠がないから、
畿内説もまったく不可ではない、といった程度。 >>94
ヤマトタケル「え、俺? ちゃうちゃう、相手がくれたんだだってば!」 魏志倭人伝に出てくるのは北九州かも知らん。
しかし、それが倭国、後に字を換え和国、更に大付けて大和(これは元々、オオヤマトと読んだ)国である以上、そこで示されている邪馬台は、すなわちヤマトのこと。
魏国が邪馬台と見たのは、本当はヤマトのほんの一部であり、卑弥呼は王を詐称する一勢力だった、というなら話は分かるが。 >>92
>朝鮮半島にも進出していたんじゃないかな
それ百済 九州は台風や火山の影響で決して自然環境が安定した土地ではないからな。
当然津波や火山噴火で村落が丸ごと消滅する天災が起これば安住の地を求めて遷都したくもなる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています