>>252
日本による韓国併合は合意にもとづいたものだったとか、平和的に行われたという議論がありますが、実態はどうだったのでしょうか。

1910年8月に行われた「韓国併合」とは、「韓国併合ニ関スル条約」を結んで大日本帝国が大韓帝国を廃滅させ、直轄植民地として自らの版図に編入したことをいいます。
「韓国併合ニ関スル条約」では、「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す」(第1条)と位置づけ、
「日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受諾し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」(第2条)と謳っています。
つまり、大韓帝国皇帝が韓国に関するすべての統治権を大日本帝国皇帝、すなわち天皇に譲渡し、天皇がこれを受諾して韓国を日本に編入するという論理構成になっています。
韓国併合が合意にもとづいて行われたという主張は、この条約を前提にしているわけです。

しかし、この条約が結ばれた経緯を詳細に調べると、そうした「合意」の形成は危ういことがわかります。同条約は、日本が準備した条約案を韓国に受け入れさせたものだったからです。
もちろん、韓国側が受け入れたのだから「合意」が形成されていると強弁することも可能かもしれません。
しかし日本政府は、将来の日韓「両国民ノ輯睦ヲ図ル」ために日韓の「合意」の形式を整えることを重視する一方、もし韓国側が抵抗を示した場合には、威圧や一方的宣言によって編入を行うという方策もあわせて検討していました。

日韓交渉および日朝交渉において、韓国併合の不法性を指摘する日韓旧条約無効論が議論となりましたが、そのなかで焦点となったのが第2次「日韓協約」の有効性についてです。
2000年を前後する時期に、日韓の歴史研究者間で、国際法学者を巻き込みながら第2次「日韓協約」の有効性に関する論争が、特に海野福寿氏と李泰鎮氏との間で行われました。

そこでの論点は大きく分けて、@批准書の存否や主権委譲にかかわる手続きなどの条約の形式をめぐるものと、A条約締結過程で日本が韓国側代表に対して加えた強迫などの行為を条約成立の阻害要件と見なすか否か、の2点でした。

特にAは、ソウル中心部で日本軍が軍事演習を行って威嚇するなか、条約締結をリードした伊藤博文が軍事力の行使をちらつかせながら詐術的言動により条約を締結したもので、
条約締結直後からその非を鳴らした義兵や愛国啓蒙運動などによる反日運動が繰り広げられることとなります。
それが条約の無効原因となるかどうかはともかく、日韓歴史研究者間の論争でも、条約締結において強迫行為が行われたという歴史的事実の認定自体は一致しています。
日本が軍事的示威を行使しながら韓国の主権侵奪を遂行していったことは、第2次「日韓協約」締結過程にもよく表れています。