【歴史】禁門の変のあと、高杉晋作の斬首を長州藩が検討。岩国で文書発見
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幕末の長州藩が1864年(元治元年)7月の禁門の変に敗れた後、奇兵隊の創設者・高杉晋作
(1839〜67年)の切腹や斬首を検討していたことを示す文書が、山口県岩国市の市立博物館
「岩国徴古館(ちょうこかん)」が所蔵する長州藩岩国支藩の藩政史料から見つかった。
禁門の変後、第1次長州征討軍参謀の西郷隆盛は、長州藩に急進派藩士の処分を求めた。
当時、同藩では幕府に恭順する保守派が藩政を掌握。岩国領主・吉川経幹(きっかわつねまさ)は
幕府との調停役を務めていた。
晋作に関する文書は2点あり、一つ目は長州藩家老・志道安房(しじあわ)が64年11月9日、
征討軍の前線基地があった広島に向かう途中、岩国領に立ち寄った際の「手控(てびかえ)」。
藩の処分案が記され、晋作は「高杉和助」の名で「切腹之部」にあった。二つ目は、晋作ら
急進派7人の名が書かれた「斬首状写(うつし)」。「姦吏(かんり)と徒党を結び、上を欺き、
下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」と晋作の罪状を挙げ、
「斬首被仰付(おおせつけられ)候事(そうろうこと)」としている。 長州藩の麒麟児高杉晋作も
肺結核が進み遂に立てなくなると
諸隊の隊長たちが集まって善後策を相談。
高杉晋作に後継者に誰を託すのかと一同雁首を並べて
問いただすと後は(村医者の)大村益次郎に頼めとの事。
大村の後は誰に頼めばいいのだろうと再度、
問いかけると山田市之允(山田顯義)が良かろうとのご神託。
山田は当時22歳。身長148aの小童。
山田の後は誰が宜しかろうといわれると
高杉晋作は「そんな先のことまで僕にわかるわけはなかろう」と
言ったという。
高杉晋作の目に狂いはなく、大村・山田の2トップは
戊辰戦争を終わらせたばかりでなく、
国民皆兵制度(徴兵令の前身)、日本軍隊誕生に向けて大車輪の活躍。
遂に日本軍隊を誕生させました。 狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html
時々は日本軍隊創立者の
大村益次郎と弟子の山田顯義の事を
思い出してあげてください。
私は日本最強の軍人は山田市之允だと思うけどな。
鳥羽伏見、北越、五稜郭、佐賀、西南戦争と
出ずっぱりで唯の一度も負けなかった。
スイスイと勝ったことが悪かったのかな。
今じゃぁ歴史の塵の中に埋もれちゃってる
山田が前線に出ると3か月かかる戦いも3日で終わっちゃう。
高杉晋作が遺言で後継者に推挙した
山田市之允は用兵の天才だ!!
なんでも鑑定団 愛のエメラルド >>254
日テレの年末時代劇スペシャル「五稜郭」で知ったが、大河で取り上げても面白いかもな。 元治元年(1864)甲子7月19日京都蛤御門の変で敗れた長州藩は
慶応三年(1,867年)丁卵十二月十一日、諸隊総指揮官山田市之允に率いられ
再び入京。京都の地に現れる。「防長勤王史談」に記載されている当時の模様を下に掲げる。
(前日の)長州兵の入京(毛利内匠の小部隊)は夜半に相成り、格別人目には触れざりしが、
十一日奇兵隊其の他の入京は白昼のことにて、四年来初めての入洛なれば、
市民至るところに於いて、
弾薬袋の一字三星の紋を見て、長州ぢゃ長州ぢゃと人皆仰天し、涙を垂れて拝むものあり、
こわ(怖)やのこわやのといふものもあり、諸藩邸の人々は一目見て、奥に走り込む模様、
随分一時震動の勢いにつき、二条城に於いては長軍対戦の用意致し候由、
後に相聞きたり・・・・・・・云々。
山田市之允入京し、京都御所を拝して、かつて蛤御門に敗戦した往時を
思い浮かべて涙潜然、すなわち賦して曰く。
三軍來踞承明門
要表真誠訴宿冤
鳳詔方降紫宸殿
壮夫揮涙拝天恩
読み下し
三軍來踞す承明門。
要を表して真誠宿冤を訴う。
鳳詔まさに降る紫宸殿。
壮夫涙を揮(ふる)って天恩を拝す。 日本軍隊を誕生させたのは高杉晋作が期待した
大村益次郎、山田顯義の2トップで間違いないんだが
アットイウマニ山縣有朋、西郷隆盛・従道兄弟、
大久保利通に(日本軍隊を)乗っ取られてしまいました。
でもね、日本軍隊を誕生させたことの証明書が東京九段坂の靖国神社に
残っています。大村益次郎の銅像がその証明書なのさ。時の内務卿
山田顯義が発起人になってこの銅像が完成しました。 日本大学と早稲田大学の違いは 長州藩出身者と佐賀藩出身 [無断転載禁止]©2ch.net
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陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 1
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陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 2
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狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html >>258
山田の大河も面白そうだけどな。
まあ、先行きの楽しみにとっておけばいい。 高杉晋作って背がとても低いのをコンプレックスにしていて、
座った写真しか撮らせなかった人だろ(´・ω・`)
西郷、大久保、小五郎、龍馬みたいな巨人だらけの志士の中では、
やはり肩身が狭かったのかな? >>13
辞世の句が好きです
面白きこともなき世を面白く
住みなすものは心なりけり >>262
だな。
尊攘派(正義派)が不利な状況にも関わらず決起して保守恭順派(俗論派)を倒して長州を一本化したのは高杉。
その時、伊藤博文も命を惜しまずに参戦。
それがなければ以後の長州は維新の功労藩になれなかったわな。 >>144
安政の大獄で吉田松陰の首をハネてよかったな
明治まで生きていたら日本はイスラムみたいになっていただろw 激しい銃弾の飛び交う中、着流しを着て三味線を弾きながら歩いているんだこの人。 今の山口県には岩国城と萩城があったけど
それぞれ周防と長門だったのに何故か一国一城の令で岩国城は壊されたんだよな
だから岩国市民としては萩に少なからず恨みがあるのよ >>29
江戸後期の武士とか弱いでしょ
百姓の鍛え抜かれた根性と腕力
白兵戦でも素手でも百姓のほうがつええわ >>265
下の句は看取った尼が書き足したとかなんとか ただ長州の場合は他藩と比べても罪人に対しても、若い高杉みたいな連中に対してもかなり生ぬるい
ところがあるからな。薩摩は逆だな。高杉が薩摩に生まれていたら、間違いなく腹切らされて歴史に
名を残すこともなかったに違いない。 >>132
山口ー周防国、長門国
広島ー備後国、安芸国
島根ー出雲国、石見国
いずれも旧国境越えて合併してる自治体があるからなあ。 >>12
池田屋の変で幕末の志士が新撰組局長にかけた言葉は? >>7
まあテロの準備を全くしていなくても
支配者と相反する思想を持っていたらテロリスト認定されて処断された例はいくらでもあるからな
それは吉田松陰しかり幸徳秋水しかり >>273
看病に当たっていた野村望東尼(のむら もとに)が下の句を付けたとされてきたようだが、一説では死の数年前に高杉がすべて詠んだとも言われていて定かではないようだ。
辞世の句が合作というのもおかしいしな。
晩年に詠んだ歌でこの歌が一番彼に相応しいから辞世の歌にされたのかも。
面白くもない世を面白く生きたんだろな。 >>271
あれは毛利輝元のせいだからな。
長府藩に城がなくて岩国領に城があると色々まずかったらしいが。 当時は火付け盗賊集団の頭領みたいな感じだったんだろうな
おかしな歴史観を日本人に植え付けた連中が英雄のようなイメージを作ったけど >>283
だから高杉は参加してないよ。
あんたは知らないで書いてんだろ。 高杉は身分が高かったからな。
責任を取って当然の立場。 >>281
チョンは長州の得意技だもの
もっとも岩国は長州じゃないがな 椋梨藤太率いる保守恭順派にとっては尊攘・急進の連中は目の上のたんこぶだからだろ。
幕府から急進派の連中の首を差し出せといわれたからおたずぬ者扱いにした。
だが、やがて高杉は功山寺で決起し形成を逆転させて保守恭順派を駆逐、藩の実権を掌握した。 高すぎは下関の人だと思ってたよ。さっさと殺されれば日本はもっと良くなってた。 で、こいつは具体的に何をした?
中央集権やら悪政してただけやろ
色々と美化されてて違和感 >>93
井上って、元就の代で粛清されてた家老格だっけ? 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし。」
伊藤博文がこう高評価してたが、破天荒すぎな人物にしか思えん >>233
そうだよね
事情というものを説明する意識が抜けてるんだよね往往にしてさ
事情=WHY だから 一番重要なのに >>296
高杉の足跡を知らないからだろ。
歴史小説を少し読んだぐらいじゃ、龍馬は偉大な維新の功労者とかいう人になっちゃうよ。 蛤御門の変質者
これ分かる人は30年前京都周辺に在住していた人 高杉と伊藤らが決起しなかったなら後の薩長同盟はなかったんだから、高杉の功績は大きいだろ。
維新を前に亡くなったから新政府での活躍はなかったが、生きていたら西郷らは長生きしていたかもな。 20年位前に萩に行ったときにたまたま、「晋作のいとこの孫」っていう婆ちゃんに出会った。
ムチャクチャやったんで家は大変だったそうな。
ただ、それに見合う事を成し遂げてくれたんでムチャクチャ尊敬してるそうな。 >>302
萩なんて、吉田松陰に先生付けて呼ばないだけで発狂する土人だからこんなのでも尊敬するんだろう >>303
安倍晋三は父晋太郎(元外務大臣)の一字もらったんだろ。
父晋太郎はその父(元山口県議)から名付けられた。
おそらくは高杉晋作の一字をもらった。 >>306
事実としてそれが原因で安倍晋三は武田鉄矢を恫喝し
芸能界から消そうとした 命を狙われた高杉は九州、現在の福岡市中央区平尾の野村望東尼の家に隠れ住んでいた
伊藤博文は別府のヤクザの親分に匿われていたと記憶しているが。 >>295
一族30数人皆殺し。ただし井上一族にもいろんな人がいて、一人だけ元就に対する忠誠心があつい
奴がいたから、そいつだけ殺されなかった。その末裔が元勲井上馨で長州の中でも一番たちが悪くて
国の財布と自分の財布の区別がつかなかないほど悪いやつ。まあたった一人生かしておいただけでも最後
はそうなってしまうわけだから。元就の判断はやはり賢明だったのかも… 奇兵隊作ったのはイギリスで傀儡
高杉晋作は利用されただけのマヌケ クーデター組織作りたかったのはイギリスで
イギリスの下僕が晋作だろ
バカ過ぎ 逆賊であり逆臣でもある天下の大悪人が高杉
こんなのを持て囃すのはまさに勝てば官軍 奇兵隊の兵器はイギリス製で反英の組織なら売ってないだろ >>255
晋作が一番頼りにしてたのは山形狂助じゃないの?
晋作自身が、自分と山形は切り離せない関係だって歌に詠んでいた気が?
まあ山形に限らず晋作とつるんだ伊藤や聞多が明治の元勲になるわけだから、
晋作が美化されるのは仕方ない 西国大名をダマすために偉大な人物像を
作ったのもイギリス東イン会社だろ バカチョン菅直人や安倍チョン
が崇拝するのがイギリスのスパイが歴史 斬首と切腹では随分待遇が異なるが、松蔭門下生の過激派リーダーで私兵囲ってた高杉が藩家老級からどういう目で見られてたかを伺える資料かもな。
禁門の変に参加もできず止める事も出来ずヤケクソモードで東行と号した時期だっけか? 禁門の変の時点で高杉晋作が死んだら、
長州征伐で幕府が勝利することになって、
薩摩は徹底恭順に転向、
明治維新はなかったな。 >>314
江戸幕府側すればな。
江戸幕府が続いたらイギリスや列強の餌食にされていたかもよ。 結局は高杉晋作が小倉城を落とした時点で幕府滅亡が決まったようなもの。
高杉晋作が幕府を滅ぼしたと言っていい。 高杉はむしろ禁門の変を止めようと奔走してたのにな
当時の日記に、禁門の変の首謀者の一人である来嶋に対して
進発しないように説得にいったら
じゃあ、俺の首をはねてみろって挑発されて困ってしまってる記述がある
これは誰も止められないって
その日記に、首謀者の後ろにいる囃し立ててる張本人がわかった
公家の連中だと書いてるw おそらく三条
こういうのってドラマであまり描かないよね
面白いのに >>314
朝鮮からみたら憎っくき長州・薩摩だろな。
徳川が日清・日露戦争に勝てたか疑問。
朝鮮が併合されたのも日本に新政府が誕生したればこそだからな。 >>316
頼りにはしていたのだが、高杉が決起した時最初にはせ参じたのは小物の伊藤博文で、事が終わって決起が成った後にやってきたのが山形。
その時の高杉の台詞が「あんたは誰だ」だったとか。 >>327
ワロタ
さすがは「死も社会奉仕」とのちに石橋湛山に揶揄された元勲山県有朋らしくていいな(笑)
逆に伊藤はあの時力士隊を率いてはせ参じたからこそ、大久保なきあとの首班に成り上がった
まあ伊藤はのちに自ら初代朝鮮統監となって死地に飛び込むくらいだから、
若い時から勇気があるな
でも結局日本で最後まで生き延びるのは山県みたいな日和見で要領いいやつなんだよな〜 あの時代は関わるタイミングと場所次第で天と地の差があるしな
運が良かったねということだろう 高杉は親父から軽挙妄動は慎めと厳しく言われてたのにその反動から無茶苦茶なことばかりやるようになった
勝ったから持ち上げられてるけど本来なら獄門になってもおかしくはない無法者だわ 同志がいっぱいいて藩も迂闊に手を出せなかったんだろうな(´・ω・`) >>322
高杉晋作が決起した時、相撲隊と遊撃隊の80人ほどしか集まらなかったが
その後少しづつ味方が集まり逆転したのを見ると
ちょっと火を付ければ大炎上する下地があって
高杉の力でねじ伏せて逆転したのでなく、単なる火付け役な存在だったと思う
歴史上有名な人がもしも死んだりして存在しなかっても、別の人物が成り代わり
歴史はほぼ同じように経由するもんだと思うが
この人の代わりなんて出てくるか?と思ってしまう歴史上人物もいる
その一人が吉田松陰、この人がいなくとも長州に勤皇派が誕生しただろうが
かなり性格の違う歴史を長州は歩む事となったろう
高杉晋作についても松蔭ほどではないが、そう思ってしまう人物で
もしも禁門の変とかで死んでたら、別の人が決起しただろう
しかし火の付け方が高杉ほど上手でなく
長州は水戸藩みたいに内乱でボロボロになってたかも?
第二次長州征伐が起こった原因は、佐幕派となった長州藩が再び倒幕派が牛耳った事が理由で
高杉のいない歴史では第二次長州征伐は無かった可能性が高いかなと思ってしまう >>332
一か八かの賭けで出撃したからな。
伊藤博文も死を覚悟していたらしい。
高杉を慕い集まった兵も多かったらしい。
高杉の葬儀はもの凄い数の弔問を集めたが、山県の時はそれは寂しい弔問の列だったという。 >>326
徳川なら日清は避けた。
日露はギリギリまで避けて
向こうが動員を完了した時点で吹っかけられて敗北。
北海道まで植民地。 >>330
革命の主役なんてみんなそうだろう。
孫文なんて何度負けてるんだかw >>332
晋作の場合、高級官僚の名門出身という稀有な立場にあったから、
足軽出身の山県や伊藤では求心力が足りなかっただろうし、
藩主親子に可愛がられていた聞多なんかだとカネにまつわる汚職がらみで、これまた求心力に欠ける
やっぱり、理性的な判断力を持ち合わせつつ、表向きは過激な尊皇攘夷を演じられる稀有な役者が晋作だと思うね
童心過ぎて最後は刑死させられた師匠の松蔭の思想と矯激さを最も受け継ぎつつ、
それを現実の革命行動として見事に表現し、維新回天を成し遂げた晋作は、
やはり革命家として評価できるだろう 高杉晋作は生れ育ちがいいから、卑しさがない
上士の跡継ぎで家でも藩からも大事に大事にされて育てられたエリートのボンボン
怖い物知らずで、カネの心配もないから無欲で突き進める
足軽・農民出身の伊藤博文や山県有朋には
ひとの顔色を伺わないと生きていけない生まれだから
どうしてもギラギラした欲が出てしまうのと好対照
マジンガーZの兜甲児みたいなもんだな 晋作って破天荒で無茶苦茶やってるけど、あの時代だからだろ
司馬も革命以外では使いどころがない革命のためだけの天才みたいに言ってたが、
時代が変わればその時代に合わせた有能さはあったと思うぜ
スポーツもできて勉強もできる文武両道で、女買って酒飲んで三味線弾きながら歌う粋な洒落者
発想力も行動力も常人離れしてる
今の時代にいたとして仕事できないわけがないし、放火犯なんかにはならないだろww
まぁ多分、どの時代にいても変人なんだろうけど まぁ、今の歴史の流れを作った革命家は、
織田信長、吉田松陰、高杉晋作。
この三人だろうね。 >>332
その舞台がひと目見たくて遠路、功山寺まで行ってきた。
立派な門のある静かなお寺だったけど、それほど広くない敷地が80人を妙にリアルに感じた。
長州男児の肝っ玉を・・・と見栄を切った姿を想像して「来てよかった」と思ったよ(´・ω・`) >>243
動脈斬られてるwwwワロタww
それならブッチャーやテリー・ファンクは戦に身を投じて死を賭けた英雄だな
いやもちろんプロレスラーとしての彼らは一流だが 高杉を斬首していたら長州がその後薩摩と共に立つことは無かったんだろうか まあ新しい日本は西日本人が作っていく訳だよ、納豆のように粘着質の
東国土人には無理な話 薩摩に比べて長州は薄汚いのが多すぎ
現在の安倍晋三に至るまで脈々と受け継がれているのは長州のチョン血統ゆえだろうな >>334
だろうね
徳川幕府の外交姿勢は一貫して事なかれ主義の逃げ外交だもんなw >>301
永倉新八さんが自慢話の一環で
うっかり自白ちゃった通りだが
京の町に放火したのは新撰組な >>336
功山寺挙兵の時、奇兵隊は高杉に従っていない
あくまで山縣の指揮で動いている
高杉は決起はしたが総大将の立ち居地になれなかった >>332
最初みんな乗り気じゃなくてじゃあ独りでやるって出てって、それから人が動き出して増えてったんだよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています