『朝鮮人に対する徴兵制について、戦後の朝日新聞は、嫌がる朝鮮人を無理やり徴兵
したように報じている。だが、当時の「朝日新聞・朝鮮版」を読み込むと、その実態は
かなり異なる。徴兵制導入以前から多数の朝鮮人が兵士に志願するという下地があり、
日本人と同様の「愛国心」が発露していた様子が窺える。』
朝鮮半島で「志願兵制度」が導入されたのは1938年のことで、「徴兵制」が実施
されたのは1944年からです。 志願兵制度が導入されるまで、朝鮮人が旧日本軍に
入隊する術は、陸軍幼年学校か陸軍士官学校に進むしかなかった。1937年に
日支事変(日中戦争)が勃発した。山西省の戦いで一個大隊(約1000人)の指揮を
執って中国軍をせん滅した大殊勲により、朝鮮半島出身軍人で初めて金鵄勲章功三級を
授けられた金錫源大隊長(少佐)は、1915年に陸軍士官学校(27期)を卒業して
いる。日支事変の遠因となった、1937年7月29日の「通州事件」(北京近くの
通州で日本人・朝鮮人居留民二百数十名が中国兵に惨殺された)により、朝鮮人の
中国への怒りが頂点に達していたこともあり、朝鮮半島では志願兵がまだなかった
にもかかわらず、志願が殺到していた。

『志願兵申出で百五名に達す 沸る半島同胞の熱血』
「暴戻支那を討つべしと朝鮮同胞の義憤の血はいやが上にも沸ぎり、朝鮮憲兵司令部の
調査によれば七日現在志願兵を申出たものの数は京畿道の二十五名を筆頭に全鮮で百五
名に達している」(『大阪朝日・南鮮版』1937年9月8日付)
 このような世情を反映して、1937年に東京府4区選出の朴春琴衆議院議員は、
「朝鮮人志願兵制度」を請願した。実際に志願兵制度が公布されたのは、1938年
1月23日だったが、それを如何に朝鮮人が待ち焦がれていたかが報じられている。
『反響呼ぶ志願兵制度 忽ち志願者殺到 応接に転手古舞いの憲兵さん 微笑ましい
朗景展開』「朝鮮人志願兵制度実施が発表されるや半島同胞の間に一大センセイション
を巻き起こし、十六日夜から十七日にかけて熱誠溢れる志願者がどつと繰出し京城憲兵
隊、京城憲兵分隊、龍山憲兵分隊の受付は問合せの電話や志願者との応対でほかの仕事
は全然手がつけられぬ有様だ(略)」(『大阪朝日・南鮮版』1938年1月18日付)

これらの熱気は、男性陣だけのものではなかった。
『聴け! この愛国の純情 私たちも男ならば率先軍人を志願 乙女の胸に映った志願兵制度 』
「(略)一方半島女性もこれに関し新たなる抱負を強く刻み込んでいる、(略)感想文中二、三を拾って見ると左のとほりである
一、本当にこれで半島人も国家の義務をもつ一人前になったのです
一、私も男ならば志願兵になるのにと思いました」(大阪朝日・朝鮮西北版1938年1月27日付。写真F)

当初7倍だった倍率は、5年後には50倍になった
朝鮮人志願兵制度をまちわびる熱気に押されるように、1938年2月23日、志願兵
令が正式に公布された。『待望の志願兵令公布さる』「(略)半島二千三百万大衆の待望
久しき陸軍特別志願兵令は二十三日公布され、ここに朝鮮統治二十八年はつひにこの
輝かしき結実として燦然たる一大金字塔はうち樹てられた」(『大阪朝日・南鮮版』
1938年2月24日付)

『志願兵制度に感謝の電報 欣喜雀躍の在満同胞』(1938年1月22日付)
朝鮮人志願兵制度は、日本在住の朝鮮人の間でも大きな反響があったようだ。
『志願兵制度に内地在住同胞も大感激 各地で我先にと志願』「(略)内地在住朝鮮人
間にも至るところ歓喜の渦を巻き起し現在憲兵隊に出願したものは関西だけでも大阪
六名、京都五名、神戸、名古屋にも数名あり、京都では十七日夜半島人青年会員五十名
が祝賀提灯行列を行った(略)」(『大阪朝日・南鮮版』1938年1月23日付)