0001アルカリ性寝屋川市民 ★
2018/02/04(日) 14:42:39.24ID:CAP_USER9経験したことのない激流
地震発生時、「きたかみ」は沿岸のパトロールから帰港し、燃料補給を終えようとしているところだった。激しい揺れの後、引き波でどんどん水深が浅くなり船底が海底の上に乗ってしまう危険性もあり、緊急出港することになった。直前まで航行していたので、船のエンジンを壊さないように暖機運転する必要はなく、すぐに出港することができた。当時、航海士補として、かじを握っていた佐渡博幸さん(54)は「津波の危険があるときは、エンジンを壊さぬ範囲で暖機が不十分でも出港しようと話していたが、暖機をしたらどうしても時間がかかる。すぐに出港できたのは良かった」と話す。
出港した「きたかみ」を津波が襲った。長さ67.8メートル、幅7。9メートルの船体は、激しく複雑な流れに翻弄(ほんろう)され、港の入り口の防波堤を越えることができない。「面かじいっぱい」「かじ利きません」。船橋内で緊迫したやりとりが続く。進退窮まった「きたかみ」は、後進して向きを変えようとする。「きたかみ」の速力は約18ノット(約33キロ)だが、津波の勢いは船の能力を超えていた。漁船の乗組員を経て海保に入り、豊富な海の経験を持つ佐渡さんも「津波は川の流れのようで、船が海であのような流れの中に突っ込んだのは初めてだった。(感覚的には)20ノット(約37キロ)以上あったように感じた」と振り返る。
津波との格闘の末、「きたかみ」はようやく防波堤を抜け、安全な海域に到達することができた。東京・霞が関の海保本庁以外との連絡が途絶え、陸上の様子は全くわからなくなっていた。その頃、津波は釜石の市街地を破壊し、佐渡さんが生まれ育った自宅も流されていた。
燃料だけはあったが
「きたかみ」は助かった余韻を感じる間もなく、被災者の捜索や救援活動を始めた。燃料は満載していたが、食料と水は緊急出港したため積み込めなかった。「初日から、食料を節約しながらの活動だった。海水を真水に変える装置を搭載していなかったので洗濯などもってのほかだった」と語る。
「きたかみ」は震災後も被災地を海から見守り続けた。佐渡さんは「夜、灯台が復旧して海を照らし、真っ暗だった街に明かりが戻るのを見るごとに復興していることを実感した」という。16年12月に「きたかみ」を降りた佐渡さんは、現在、釜石海保の陸上職員として海上保安業務の一翼を担っている。
「お疲れ様と言いたい」
「きたかみ」は、1980年8月に青森海上保安部の巡視船「おいらせ」として就役後、04年2月に釜石海保の配属となり「きたかみ」と船名を変えた。
西村美徳船長(55)は「就役後、37年を経てエンジンも装備も老朽化が目立ってきた。福島県沖で津波を乗り越えた『おしか』(震災当時は『まつしま』)など旧1000トン型と並んで昔の船らしさが残る巡視船だった。『きたかみ』にはお疲れ様と言いたい」とねぎらう。
2月末には、釜石海保に初めて新造の巡視船として、長さ72メートル、幅10メートルと一回り大きくなった2代目「きたかみ」(650トン)が就役する。西村船長は「新たな『きたかみ』は速力も速くなり、最新の装備も備えている。新たな船を乗組員とともに使いこなして、地元の期待に応えたい」と意気込みを語った。
毎日新聞2018年2月4日 11時00分(最終更新 2月4日 11時00分)
https://mainichi.jp/articles/20180202/k00/00e/040/206000c