下町ボブスレーネットワークプロジェクトはかつて「初の国産ボブスレー」を標榜していたが、
それはこの MISIMA 以前の開発史を知らなかったためである
このことも含め、不見識に基づいた彼らの一連のPR活動は実態以上に
日本のボブスレーの現状を貶めたとも捉えかねない物であり
、後の連盟との不協和音の一因となったとされる

1994年、リレハンメルオリンピックの終了後、
長野オリンピックを目標に国産のそりを製作するプロジェクトが連盟の旗振りで立ち上がる。
この時開発リーダーとなったのは、後に下町ボブスレーネットワークプロジェクトにも大きく関与することとなる
童夢の奥明栄であった。奥は国内で唯一のそり制作経験を持つ MISIMA を開発した技術者を頼って北海道へと出向き、
彼から MISHIMA は時代遅れであり本気で勝つつもりなら自身の目で世界を見よとの助言を受ける。助言通り奥はリレハンメルに飛び、また代表チームの海外遠征に同行してデータ収集に2年間を費やす。ところが3年目実機の制作にとりかかる寸前、
資金難に加え連盟内のプロジェクト推進者が退陣したことによってプロジェクトは中止となった。既に経費が数百万円かかっていたが、これについては支払われることはなかった
童夢の社長林みのるはこれを「童夢に開発を依頼してきた人たちが(連盟から)そっくり追い出されて」しまった「お家騒動」であると表現している