【古代ロマン】福岡で卑弥呼の墓を発見か 魏志倭人伝にある記録とほぼ一致 ★3
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◆福岡で卑弥呼の墓?発見か それでも調査の予定ない理由
古代史最大の謎がついに解明か──。
福岡県の赤村にある丘陵をめぐって、西日本新聞が報じた「『卑弥呼の墓では』巨大な前方後円墳? 謎の丘陵」(3月20日付)という記事が大きな話題を呼んでいる。
〈全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳『大山古墳』(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは『卑弥呼の墓では?』といった期待の声も聞かれる〉
地域住民などによる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートルで、これは魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の直径の記録とほぼ一致するのだという。
卑弥呼が治めた邪馬台国の所在地については、長く九州か畿内かで論争が続いてきたが、奈良盆地の纏向(まきむく)遺跡と箸墓(はしはか)古墳の調査が進んだことにより、近年は畿内説を有力視する声が強まっていた。
しかし、この丘陵は、九州説巻き返しの切り札になる可能性を秘めているという。
「福岡は志賀島で漢の皇帝から送られた金印が見つかるなど、古代の中心地だったことは間違いない。
この丘陵がもし前方後円墳だということになれば、再び九州説の可能性が高まることになり、古代史ファンとしては夢のある話です」(歴史研究家の河合敦氏)
ところが、高まる期待とは裏腹に発掘調査が始まる見通しは立っていない。
「豊の国古代史研究会」の一人が事情を打ち明ける。
「発掘には文化庁に届け出た上で厳しい審査が必要とされる。
丘陵地の地権者の方で発掘に反対している方もおり、現状としては本格的な調査に取り掛かることができないでいる。
たまたま遺物が出てきた、といったことでもあれば調査のきっかけになるのですが……」
調査には自治体の協力が欠かせないが、赤村役場の文化財担当者は「丘陵は自然の地形で前方後円墳である確証がないため発掘調査の予定は現在ない」と否定的で、調査実施のハードルは高そうだ。
“巨大な謎”のまま封印されてしまうのか。
写真:たしかに前方後円墳のようにも見えるが(Google Earthより)
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/6/7/67ebc_759_6a23357c_8db83767.jpg
※週刊ポスト2018年4月6日号
ライブドアニュース(NEWSポストセブン) 2018年3月26日 16時0分
http://news.livedoor.com/article/detail/14487080/
■前スレ(1が立った日時:2018/03/27(火) 10:59:37.38)
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1522276769/ 卑弥呼なんて日本の歴史から見れば、つい最近の事。
なんせ縄文時代は、1万3千年前に栄えてたんだから・・ 俺も畿内説支持者ではあるがこれは古墳だろう
地件者が調査を拒んでたり担当者が自然地形だと言い張るのは
田川だから不法投棄とか都合の悪いものが出てくるのが理由だと思う 魏志倭人伝には「其死 有棺無槨 封土作冢」とあり
前方後円墳には槨があるから卑弥呼の墓じゃない。 うるせーな
奈良にあったでFAなんだからもう諦めろや 殉葬者百人の骨が出てくれば信憑性も高まる
大和王権や天皇との関わりは謎だらけ >>10
小学生レベルの酷い妄想だな(呆れ)
地権者が拒んでいるというソースを掴んでから出直してこい 卑弥呼の後継者が東遷したのが今の天皇家なんだろうな >>1
西日本新聞の関連記事貼っといてよ
「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル [福岡県]
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/402402/ ほんとにいたのかも怪しい
当時日本列島は文字も知らない土人と野人しかいなかった
ジャップの捏造では? >>1
陵墓の地区は後の人権地区になっている区域があり、
全ての人権地区が必ずしもそうであるとは限らないが、
古墳との因果関係はかなり高いと思われる。
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人権地区というものが「守墓人」が発祥であるいという説に立つと、
やはり、前方後円墳らしきもがある赤村も同和関係比率がかなり高い。
同和地区人口比率:田川郡赤村36.3%(「今日の部落差別」1997年解放出版社)
丘陵は同村の西端、赤村“内田小柳”地区の雑木と竹に覆われた民有地。
「同和会赤村連協」は、福岡県田川郡赤村大字“内田小柳”2289-25にある。
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これらの状況から、「人権地区=守墓人」という仮説に立つと、
赤村の丘陵は、前方後円墳(少なくとも何らかの古墳)である確率が高い。
ちなみに、同村出身で解放同盟主催の集会で出自宣言をしたうえで、
自分の持ち歌を唄ったこともある歌手のN川M子氏は、
「後鳥羽上皇の墓守り」である隠岐島在住の男性との婚姻歴がある。
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もし筑紫平野にあったのなら、ある程度場所の予測はできる。
筑紫佐賀平野の遺跡は北側に集中している。
洪水があるので川の近くは住めなかったということだ。
で、古代人は太陽を信仰の対象していたから
北側の真東の山の麓に墓を置いたと思われ。
もっとも畿内国にとり壊されたんだろうが・・・ 修羅の国なら、平成以降に埋められた分も混じってるから要鑑定 >>1
近畿説って政治的権力が背景にあって
近畿説に反する発見は調査阻止しているのかな? 九州村おこし組が回線なんかいも切りながら必死に書き込んでる感じだなw >>30
それ そのまんま150年位前の朝鮮半島ジャン 畿内説と九州説どうして差がついたのか
慢心、環境の違い・・・ 九州説って昭和の時代ですら劣勢だった記憶があるんだが… 奈良でしょ
あんなくそ田舎に邪馬台国があったとして、後の時代につながらない
by佐賀出身者 畿内説唱えてたお偉い考古学者の先生ガクブルしてますか つーか卑弥呼の時代に明確な形の前方後円墳って存在したのか?
3世紀だろ? 銅鐸が越族(秦に滅ぼされた越国)の文化であるとしてみよう
それが日本に来て最初は実用的な小型の銅鐸(中に舌があり実際に鳴らせる)から始まり
次第に巨大化して最後は持ち運び不可能な巨大なものに変化した
つまり越の宗教文化が日本という植民地で花開いたわけである
ここで越の意義が問題になる。
秦に滅ぼされた越は浙江省に位置する国で首都は会けいだが、
越人という民族はもっと広範に分布しており、呉越同舟で有名な呉も民族的には越人である
また百越という言い方もあり、浙江省からベトナム北部まで非常に広く越人が分布していた
のちにベトナム方面の越人が立てた国が南越でこれがのちにベトナム建国の基礎となる
つまり銅鐸が越の文化であるとすれば、日本に銅鐸をもたらした移民は中国南方から来たことはほぼ確定的なのである
ここで先日面白いレスをもらい、銅鐸の分布図(大阪中心に半径200キロ)と、下戸遺伝子の分布図が一致し、
下戸遺伝子が濃厚にあるのは中国南部沿岸と日本の近畿一円だけだそうである
このような点からも弥生移民の多くが中国南方系だと結論してよさそうだ 福岡の爺ちゃんが子供の時に卑弥呼に会った事があると言ってたから、邪馬台国は九州で間違いないよ。 考古学って学問と呼べないよな
例えば物理学で、理論と矛盾する発見があったら
徹底的に調査解明しようとするだろ
だけど考古学は今信じられている説に反する発見があっても
スルーするだけ 九州王朝は7世紀まで続いてるから
そりゃ九州だよ邪馬一国は
邪馬台国なら畿内じゃない?
その頃は一地方豪族だが 普通に考えて九州でしょ
あの時代に九州飛ばして関西まで行かんと思う 近畿地方が朝鮮人の血が濃いのは事実
開拓する時に労働力を輸入したんだろうな エラソーな奴だったらとりあえず俺の先祖の墓ってことでいいよ >>52
中国国内の戦乱で敗れた国の一部が日本に亡命した説は多々あるが、
それだと卑弥呼の時代に漢字が伝わってないとおかしいな
それに中国の文献にも一切そんな事は載っていない 近畿説なんかあり得ないじゃないか。魏からみて倭国は九州までしか認知できていない
だからね。 九州の原住民は今の九州人の子孫に殆ど殺されちゃったもんな 3世紀の航海技術で中国南部から大量の移民なんか来れるわけない 近畿や九州と関係無い地域の人間だけど正直邪馬台国は近畿にあったとしか思えないけどな
インフラが全く整っていない時代に九州から近畿に東遷なんて無理があるだろ
この時代より街道が発達した戦国時代ですら本拠地を移すのは一大事だぞ まだ畿内厨が寝ぼけたこといってるのか、どうもならんな 3世紀の航海技術で中国南部から大量の移民なんか来れるわけない
言語も地名も遺伝子も痕跡が何も残ってない 歴史的に
足利尊氏とか豊臣秀吉とか
九州の協力で天下人のになってるからねぇ
大和朝廷時代の筑紫の国造磐井の乱を特別に取り上げるのもそのせい 卑弥呼死んでたんか!?
村西とおるもびっくりしたろうな >>76
500人でインカ帝国を制圧したコンキスタドールもいるよ >>73
天皇家は元々宮崎辺りから水銀の鉱脈を求めて東に移った小豪族という説がある >>44
どんどん優勢になる証拠は出てきてるがな
当時の年代の装飾品が最近でも出てきてるが
近畿ではその後の時代の装飾品しか出てきていない 卑弥呼って「そいけん 」とか「ばってんさ」とか話してたらしいから
九州なんだろけど。 >>80
南米は公用語がスペイン語かポルトガル語になってる
日本語にはそういう形跡がない >>38
畿内説と九州説の論争は戦前からあるが畿内説は政治的な理由で主張 そもそも邪馬台国なんて国はないし卑弥呼なんてやつもいない
あれは魏が勝手につけた名前
大和国もしくは大和大国の姫巫女か日巫女が正しい
普通に考えりゃ誰でもそう思う 異説はあろうが縄文人の分布は、近畿から九州にかけて薄い
その理由は縄文人の食生活に薄暗い広葉樹の森はマッチしていなかったというのが現在学会の通説である
もっとも縄文農耕があるとすれば焼き畑や陸稲でどこでも生産できるから広葉樹林は障害ではないはずだ
いずれにせよ西日本では縄文人の勢力が弱く農耕も未熟だとして話を進める
そうすると中国南方から先進稲作と青銅祭器・鉄製武器を持って到来した弥生移民は、
縄文人の人口希薄で、しかも農業に適した湿地や氾濫原に一気に浸透し爆発的に人口を増やしていったのではないか
この際に最初の移民の数はある程度でよく大量移民する必要はない
何故ならば縄文人を駆逐して城塞を作れば後はイネの圧倒的な生産力で倍々ゲームで増えるからである
こうして西日本は数百年で外国勢力に制圧されてしまったのである
現在われわれは日本の弥生時代という噴飯ものの授業を受けているが
実際は日本に最初に本格的に外国勢力が侵略した場面なのである >魏志倭人伝にある記録と同じ
記録通りに行くと海の上 >>88
米という摩訶不思議な植物
江南地方と同じタイプの稲が朝鮮半島すっとばして何故か日本に出現するらしい 前方後円墳は基本的に4世紀の古墳だからなあ。
他にもいくらでも円墳やら方墳やらの
古墳があるからなんとも言えん。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています