植民地フィリピンの慰安所

アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、イギリスと同様、植民地で公娼制度を導入した。
米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、
また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた。

1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスが
【マニラ管理売春】や【児童買春】の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け
米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした。

ルーズベルト大統領は【現地娼婦と軍との関係を不明瞭にした】が、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は
【診断料や診断証明書の料金がなくなっただけ】と語ったような実情であった。

のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで【裏取引が発覚】しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、
フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらも【アメリカ政府が公式に関与していないように努力した】

アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、
その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった。
市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると【強制収容】され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された。
この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、【兵士で処罰されたものはいない】