済州島4・3事件とは
1945年8月15日、日本の敗戦により日本は朝鮮半島を放棄
朝鮮半島は38度線を境に、戦勝国のソ連とアメリカで
分割統治することになった
北をソ連側に支援を受けた金日成
南をアメリカに支援を受けた李承晩が勢力を持った
また、別の動きとして、1945年8月15日、朝鮮人による
朝鮮建国準備委員会(後の人民委員会)が設立され
朝鮮の行政と治安を担った

この政治勢力は1945年9月に
朝鮮人民共和国の樹立を宣言した。しかしその2日後に南朝鮮に
進駐してきた米軍はこれを北に通じる共産組織とし弾圧した

済州島では1947年人民委員会と民衆による独立国家の樹立を訴えるデモに
警察が発砲し6名が死亡する事件が起こった、この事件を契機に
米軍政は朝鮮半島本土から警察官や右翼青年団を済州島に送り込んだ
彼らの迫害を避けようと、多くの済州島民が漢拏山に逃げこみゲリラ化
または日本に密入国した、翌1948年、人民委員会に率いられた
「武装遊撃隊」が警察や右翼青年団の宿舎などをいっせいに襲撃する
武装蜂起が起った。いわゆる「済州島四・三事件」の勃発である。
しかしこの米軍政の済州島民衆に対する弾圧は1948年に成立した大韓民国に
引き継がれ、李承晩・初代大統領のもとで「焦土化作戦」が展開され
この島で集中的な大規模殺戮が繰り広げられ1949年には武装遊撃隊は
ほぼ壊滅状態となり大規模な「討伐作戦」は終わりを告げた。しかし
韓国政府による島民の虐殺はなおも続き、とくに1950年の
朝鮮戦争勃発後にも漢拏山から投降した人々が殺害される事件がしばしば起こった
その後1953年には対遊撃戦特殊部隊が投入され、島のゲリラ残余勢力をほぼ
根こそぎにし翌1954年漢拏山禁足地域の全面開放が宣言されて、7年に及んだ
大虐殺はようやく幕を下ろすことになった。