【歴史】卑弥呼の世の?桃の種か 纒向遺跡で出土、年代測定
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朝日新聞デジタル 2018年5月14日14時49分
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https://www.asahi.com/articles/ASL5B22KKL5BPTFC001.html
纒向遺跡で大量に見つかった桃の種=奈良県桜井市
(記事元に他関連写真全5枚あり)
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180514000803.html
女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡
(国史跡、3世紀初め〜4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を
実施したところ、西暦135〜230年とみられることがわかった。市纒向学研究センターの最新紀要で
報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物跡(3世紀前半)の近くで出土したもので、
大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の
可能性が高まった。
センターによれば、桃の種は2010年に大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)の
南約5メートルにある穴から約2800個みつかった。祭祀(さいし)で使われた後に捨てられた可能性などが
指摘されている。
中村俊夫・名古屋大学名誉教授と、近藤玲(りょう)・徳島県教育委員会社会教育主事が、それぞれ
加速器質量分析(AMS)による放射性炭素年代測定を実施し、測定結果を、18年の纒向学研究センター研究紀要
「纒向学研究第6号」で発表した。中村さんは15個を測定し、数値の読み取れなかった3個を除いた
12個について、135〜230年と分析。近藤さんも桃の種2個で同様の結果が出たほか、土器に付着した
炭化物やウリの種も分析し、100〜250年の範囲に収まる可能性が高いとした。
邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が
倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末〜3世紀前半とされる。
邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。大型建物の年代は、
センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、九州説を唱える専門家を中心に
4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。
市纒向学研究センターの寺沢薫…
残り:465文字/全文:1258文字 古代、日本は大陸と陸続き (イネ及びゾウやワニの化石が物証)
地殻変動で大陸と分離し現在の位置に移動
(魏志倭人伝の邪馬台国の位置、混一疆理歴代国都之図の回転した日本、九州の地名90度ズレ、その他中国の蓬莱山が動いた伝説等、
その他古地磁気で日本列島の向きが古代では現在と違った事が立証済み)
311等の詳細な地形変動では日本列島には回転する動きが加わっている事が確認済み 邪馬台国なんてものがあったかどうか怪しいが九州はないね 桃なんて神仙思想に関わる果物が生えてれば
魏志倭人伝に記載されてそうなもの 魏志倭人伝にない桃が見つかって、邪馬台国だと喜ぶ精神構造が理解できない。
まじキチ? >>753
卑弥呼の鬼道の道具で記載されるはずだよねー。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? >>746
九州説は北部九州勢の力を過小評価してるんだよな
記紀は九州出身の勢力が吉備や畿内等の既存勢力と協力しながら栄えていった過程を示唆してるし、実際、難波にはかつて安曇江という奴国系勢力の拠点があった記録もある この時期すでに九州北部から近畿まで広範な勢力圏が出来上がってたってことか
狗奴国は後でいう土蜘蛛かな? >>760
文字も普及してないのに九州北部から近畿まで広範な勢力圏なんて無理
九州北部の勢力が邪馬台国で南九州の勢力が狗奴国
関西は未だ未開発。 >>761
?纏向があるやん
妻木晩田遺跡を考えてもこの時代はすでに九州よりも本州の方が発展してるよ >>763
どれも九州の遺跡と比べると見劣りしますね。 桃栗三年柿八年
早く植えよう
蓮みたいに芽が出るかも >>761
これは酷い
高校の授業を受け直してくるべき >>761
文字を持たなかったインカ帝国は
南北4,000千キロもの広大な版図を誇った
よく覚えておけ >>754
そうかも知れん。沖縄の人が内地(本土)の事を言うときヤマトゥーと言う。何県の事とか何処とかってわけじゃない、ザックリとヤマトゥーと言う。
日本本土。そんなもんかも >>772
「西郷どん」でも、奄美大島の女が「やまとぅ」「やまとぅ」言ってるな。
本土全体と言うより薩摩(≒九州島)を指してる気がした。
つまり邪馬台国は九州。 何が卑弥呼だよ。
ストーカー止めろ!
関西は関係ないんだから。 魏志に書かれる建造物様式は吉野ヶ里風だし
纏向から紅花花粉が出て来てるのも怪しいし
近畿に下戸が多いのに倭人は酒好きというのもなんか合わない。大乱跡も全くないし農地開拓に欠かせない鉄も殆ど出土しない。
九州は鏃に使われた鉄の痕跡が丁度島を南北半分に割る様なラインで出てくるんだよな。
やっぱ纏向は邪馬台とは違う大和の系統じゃねえのか。 菊池彦との戦いに魏の支援を求めた勢力が、
奈良から九州一帯まで勢力を伸ばしている大勢力のはずが無い。
邪馬台国は誰がどう考えても八女か山門に決まっている。
後は、粛々と発掘の成果を上げるだけの事。
畿内説とか言ってるヴァカは、
脳味噌スカスカな事を曝け出して居る事すら気付けないヴァカ。 「倭の五王」も聖徳太子も藤原氏も足利将軍も皆、オオキミ(天皇陛下)ではなかった。
国際的には、後の将軍も皇帝との扱いを受けている。
「倭の五王」と天皇の在位西暦年を合わせるサイトも見られるが、特に意味が感じられない。
この時代に、天皇御自ら海を渡るはずがないのだ。
記紀は天皇空位の期間を、2〜7代天皇(海部氏)で埋めているし、海部うなべ氏から物部もののべ氏に政権交代した事実に触れていない。
但し、いきなり何の関係も無い人物が天皇になる事は無かった事が、記紀の隠蔽などを暴いた出雲伝承からも分かる。
即ち、我が日本は太古からの万世一系国でも無い代わりに、諸外国の様に全く関係性の無い人物が革命により王朝交代した事実も無い。
吉田松陰氏、田中卓氏、小林よしのり氏の系譜で「萬葉一統」という言葉が伝えられている。
それを大切にしたい。
自称保守は、男系や女系などという区別、概念が無かったような時代からも男系だったという事にしようとするから、
或いは直系にこだわるあまり傍系を軽んじるから話が回りくどくなり、いたずらにサヨク論者に反論の余裕を与えるだけであった。
皇統が途切れようものなら、「日本」の国号も天に「大政奉還」する必要があろう。
物部氏に抵抗した長髄ながすね王族は、焼津、日本平と追われて常陸へ移って鹿島神宮を祀った。
太陽を信仰する出雲族の末裔は、常陸国を日立国と呼んだ。
中臣氏が攻めてきて、鹿島神宮を奪い氏神にした。
記紀では、鹿島神宮の祭神である建御雷タケミカヅチが、出雲族に国譲りをさせたという話にしている。
長髄王族(安倍王族)はさらに北へ追われ、「日高見国」「日之元津国」「日本ひのもと之国」「荒覇吐アラハバキ王国」などの国名を用いたのち、大和朝廷が「日本」と真似た。
新潟県と山形県の県境に、その名残である日本国山(標高555m)がある。
蒙古襲来の時には、安倍氏の水軍(松浦党)が鎌倉幕府の要請で蒙古軍を撃退。
これが俗にいう「神風」の事である。
安倍氏は安東氏となり、鎌倉時代後期には北条政府の支配下に入った。
紀元前660年とされる日本建国は、皇祖・徐福が来日した紀元前219年という事も出来よう。
同祖とは言え王朝交代、天皇空位、倭国大乱、「親魏倭王」に代表される冊封状態。
それでも、一つの国家の中で起こった出来事と捉える事が出来るのは、物部氏の血統が続いていたためだ。
秦の始皇帝の命を受け、2200年も前に我国に不老長寿の仙薬を求めて渡来してきた徐福船団。
彼は始皇帝を欺き、秦を脱出して日本へ渡り、理想国家桃源郷建設が目的であった。
徐福はその後、秦へ帰らず、我国に弥生革命を起こして皇祖神となった弥生の使者と言われる。
以下表より、国号制定は西暦689年なので、「日本」としての歴史はそこまで古くない。
それでも、竹田恒泰氏によると、2位のデンマークは約1010年前、3位のイギリスは約920年前の建国であるため、現存する国家としては、日本の建国が世界最古だという。
昭和43年の明治百年記念式典で、中央円台に立つ佐藤栄作首相は、「天皇陛下万歳」ではなく「日本国万歳」を三唱した。
ただ参列者の中には、この万歳に不満を持つ者もいたらしい。
両陛下が退出される際、2階正面と思しき参列者席の一隅から、「天皇陛下万歳」の声が沸き起こったのである。
総理府(現・内閣府)発行「時の動き」によれば、「参列者全員がこの万歳に和し、両陛下はにこやかにおこたえになった」という。
平成25年、主権回復・国際社会復帰を記念する式典においても、両陛下が退出される際、参列者の一部が「天皇陛下万歳」と叫び、安倍晋三首相をはじめとする他の参列者がつられて万歳したことがあった。
即ち、「1300年万歳」が物足りないのだ。
紀元前219年に入洛した徐福から続いている皇統をして、「2200年万歳」と言いたいのだろう。 吉備に左遷、或いは冊封された海部氏(出雲族)と、東征した物部氏(筑紫)は同じ徐福の子孫であった。
記紀では、物部氏の一次東征と二次東征を、「神武東征」で括っている。
奴国王の金印は物部氏・神武王であった。
「ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我れは忘れじ 志賀の皇神すめがみ」
という万葉歌があり、金印が発見された志賀島に有名な筑紫城があって、徐福の末裔、神武帝がおられた事が分かる。
新唐書(伝)で、「日本は古いにしえの倭奴である」とされており、以下の記述が読み取れる。
神武が日向族となっているのは、卑弥呼が日向にいたので、記紀で卑弥呼の共立(第二次東征)と合併しているためである。
西暦52 東征開始
西暦54 ●摂津
西暦57 金印
西暦58 ●和泉、難波
西暦59 ○即位
西暦75 ●空位(退位)
10代天皇は東征叶わず高千穂(鹿児島)に崩じたため、神武の祖先「神代1代」とされている。
その子も同じ南九州は宮崎に崩じたため、神武の父「神代3代」とされている。
いわゆる第二次東征は、第一次東征の約150年後だという。
ここから、卑弥呼共立(西暦232)がスタートしている。
あいだの「神代2代」が皇祖ニギハヤヒ(徐福)の子で、卑弥呼や神武の先祖なのである。
1世紀末、外敵に備えて小高い丘の上に住居を設けた高地性集落が増加した。
玉津田中遺跡(神戸市)からは、銅剣の先を突き刺されたその時期の人骨が出土した。
雁屋かりや遺跡(大阪府四条畷市)の方形周溝墓には、12本の石鏃せきぞくを射ち込まれた遺体が葬られていた。
1世紀末の混乱が収束した後、銅鐸どうたくが井戸の傍の祭壇跡から発見されるなど、畿内を中心とする各地に出現した。
水の神である蛇を表す文様や、河川や農耕生活を描く銅鐸が多い。
2世紀初頭頃、大和や河内の小国間の共存関係が確立し、そこに水の神を祭る新たな共通の宗教が生まれた。
3世紀初頭、瀬戸内海の航路からの移住者の来航とともに、畿内は再び戦乱期となった。
1世紀末のものより大規模な高地性集落や烽のろしの跡が、3世紀の畿内の各地に出現している。
烽の分布から、摂津西部の集団が大阪湾に来た敵を発見すると、その情報が摂津北部、山城北部、山城南部を経て、大和に伝わった事が明らかにされている。
西暦220年頃、纏向に大和朝廷が樹立されたともされる。
古代人は、霊山とされた三輪山の麓の纏向を中心とした一帯を「ヤマト」と呼んだ。
それは、アスカ、イカルガといった奈良盆地の他地域に対応する呼称だった。
奈良県全体が大和(ヤマト)とされる用法は、7世紀にならないと生まれない。
http://image01.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/ba74b5e4ca139789.jpg
http://image02.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/78ca94398b2aaf9d.jpg
http://image01.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/d2b2dd7a2fe5451b.jpg
http://image01.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/9dffeeb635130841.jpg 大和国=ヤマトノクニ=邪馬台国
姫子=ヒメコ=卑弥呼
日本では文字がつかわれてなかった時代。
挨拶に来た日本からの使者の言葉に中国側が低レベルな漢字を当てただけ。
邪馬台国がヤマトとまったく無関係のない九州の国家と考える方が無理ある。 纏向は前年迄続いたアジアを巻き込む大規模な異常気象からくる飢饉に列島各地から逃げ延びた人々が集ってできた都市なんじゃね。
纏向自体土石流の上に成り立ってるらしいし、行き場の無い民が集いそこから大和へ繋がると連合国として突如出現する理由も分からんでもない。 ワレらが自然の中で1万年以上も平和に暮らしていたこの列島に、ある日、朝鮮半島から一重まぶたでのっぺり顔の弥生人がやってきました。
「縄文人のみなさん、どうかお願いします。朝鮮半島戦乱で避難してきました。しばらくここにいさせてください」
快く迎え、飢えているのを見かねて、魚や獣を差し入れてやったこともあります。
ところが、朝鮮半島よりワレらの列島の方が稲作というものに適していることが分かり、チマキなどというものまで食べるようになると、やつらは恩を忘れ、ワレらに、
「邪魔だから田に近づかないでくれ」などと言うようになり、遂には、「この土地は昔から俺たちのものだ」と言い出しました。
それからというもの、やつらは「福は内」と言って朝鮮半島から仲間をたくさん呼び寄せ、ワレらには「鬼は外」と言って石を投げつけました。
特にひどくなったのは、飾り付けられた馬に乗った人たちが来てからです。
https://www.kahaku.go.jp/special/past/kao-ten/kao/jomon/img/02.jpg
そして、やつらは「今日からこの列島を日本ということにした。土蜘蛛、蝦夷は鬼は外」などと言いながら、ワレらを追い払い、抵抗する仲間を殺しました。
本土で生き残った者は、前方後円墳造りを強いられ、耕作に適さない湿地や山地に追いやられました。
すぐに攻撃は東北や南九州にまで及びました。
東北では、ワレらの英雄がやつらに一泡吹かせましたが、騙されて京都に連れていかれ、殺されました。
ワレらの楽園は蝦夷地と琉球だけになってしまったのです。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/9f/abde6a9ae1b8fae5656d8bbafa5a38ae.jpg
それからしばらく、蝦夷地と琉球だけは平和でした。
ところが、千年ほど経つと、やつらは蝦夷地や琉球にまでやってきました。
蝦夷地の仲間はだまし討ちにあい、土人と呼ばれ、男は強制労働、女は慰安婦にされました。
琉球は王朝を築いて発展していましたが、遂に征服されました。
その後、奥二重まぶたで出っ歯の弥生人は、世界に向けてワレらにしたのと同じようなことをしましたが、罰が当たって戦争に負けました。
その時、琉球のワレらの仲間は、「同じ日本人だから」というやつらの言葉を信じて協力しましたが、敵の弾除けにされたくさん死にましました。
スパイの濡れ衣で殺された仲間もいますし、泣き声で敵に見つかると言われ殺された赤子もいます。
挙句、やつらは、琉球を敵の統治下に差し出しました。
今は日本に復帰したことになっていますが、敵の基地はそのままです。
蝦夷地では、ワレらの仲間を土人と呼ぶのをやめよう、先住民族と認めようということになりました。
ところが最近は、アイヌはいない、アイヌは成りすましなどと言うのです。
それどころか、今度は琉球のワレらの仲間を土人と呼んで侮辱しました。
蒙古襞があってのっぺり顔の朝鮮半島からやってきたやつらは、ワレらとは違う人種です。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode03/img/img02.jpg
http://livedoor.4.blogimg.jp/money2cn/imgs/c/0/c04b98d6.gif
http://livedoor.blogimg.jp/money2cn/imgs/d/4/d40ab4e4.jpg
それなのに、先住民のワレらと同じ人種だと嘘をつく一方で、ワレらを土人と呼ぶのです。
ワレらから見ると韓国人と見分けがつかないのっぺり顔の本土人は、「同じ日本人」と「土人」を都合よく使い分けるのです。
これが、日本列島全体の先住民であるワレらから見た日本の歴史です。
http://sp.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html
本土日本人は東京周辺でも、遺伝情報の約12%しか縄文人から受け継いでいない 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 >>696
無理に統一するなら学問じゃなく政治でしかない 邪馬台国はムー大陸のことだとなんどいえばおまえらりかいするんだよ >>713
畿内説が1箇所に統一されているのは
学問的に不純にしか見えない >>728
ナイス
>>735
ならば邪馬台国という表記自体も出鱈目になり
ヤマトにこだわる必要は全くない
>>755
纏向利権でもあるんだろうか 邪馬台国大和説ですよ
他の畿内、河内和泉摂津山背は関係ない。
縁起の悪い邪馬台国、大和朝廷に巻き込まれるのは迷惑 畿内大和系の戦争
1 和平を装い首脳を宴に招待し酒に酔わせてぶっ刺す
2 敵勢力と同盟組みたいから娘嫁にくれと言い近寄って身内をぶっ刺し嫁捨て逃走。
3 海外と内通してるからと因縁つけていきなり襲いかかる。
4 処分した奴は日本書紀に妖怪として記録し俺正義改竄する。
そら大した戦争の痕跡も残らんわな。 ロサリオって日本の縄文人みたいな顔だよな
これが、元々何万年も日本に住んでたとか、どんなオカルトだよ
世間で言われてる縄文人=渡来人なんだよ 縄文人が濃い顔というのはNHKがでっち上げだったと認めた >>6
で、編集せずに放映するNHK
さすが性に奔放やでNHKさんは >>746
中国語ネイティブの中国人が魏志倭人伝を読むと奴国が卑弥呼の出身地となるそうだぞ
中国語もわからん日本人があーだこーだ言う方が間違い
『邪馬台国の全解決』 孫栄健 著
https://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_new/article/411367/ >>801
奴国あたりが勝手に朝貢していただけってのは昔からいわれてたな。 昔の桃はさくらんぼくらいのサイズでしかも塩気混じりの味だった。
桃もトウモロコシもスイカもバナナもブドウも大根もトマトもナスも昔は碌に食えたもんではなかったんだよ。 出土物のビッグデータ解析によれば、邪馬台国が福岡県であった確率は99.9%だそうだ
ちな奈良県は0.0%だってさw
邪馬台国は福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎
https://ironna.jp/article/4548?p=7
> 邪馬台国が、福岡県にあった確率
>
> 広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。
> 弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。
>
> 『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、
> 福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、
> この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。
>
> 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、
> 遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。
https://ironna.jp/file/d4c399889c0b962f241b7957292bbe0d.jpg
> 図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって
> 求めることができる。県ごとの確率は、表1のようになる。
https://ironna.jp/file/b918d0f424991e886db129418cce67d2.jpg
> これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。
> この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。
>
> 「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」 西暦135〜230年
まあ誤差はあるからな。卑弥呼時代であることは間違いない。 >>804
なんだ、もう勝負ありじゃん
畿内論者は往生際が悪いな >>804
>「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」
畿内厨はこうした学問的アプローチを一切無視するからな
ただのイデオロギー 魏志はどう読んだって九州。
卑弥呼は平原古墳から出て来た巫女。
纏向なんて一大卒から遥かに離れる遠方に当時電話もないし街道も整備されてないのに首都機能置くわけないやん。
纏向が致命的なのは戦乱の痕跡が全く無いこと。
3世紀前半位に起こった異常気象に本州各地の部族が結託し始めた連合初期の都市で邪馬台とは別国だよ。 大和の国という名前は律令体制ができた後の呼び名だから
弥生期から古墳時代の地域の呼び名は慎重に研究する必要がある >>707
「東海」というのは、畿内から見て東にある海なんだぜ。 確認できる限り歴史を遡っても九州の南部が北部より拓けてるわけないもんな
当時の九州で最も大きなクニは福岡近辺の奴国で二万余戸
それ以上の規模の投馬国、邪馬台国は実際に巨大遺跡の出てる出雲、纒向だわな その当時の桃の種が出たからと言って卑弥呼とは関係はないだろww 纏向は辰韓の様に国々の敗者が安住の地を求め作り上げた立地的にも隠里。
文字通り桃源郷なんだよ。
当時周辺には何も無く土石流で荒れ果てた地は隠れるには絶好の場所だったんだろ ヤマトトトヒモモソヒメノミコトってどもってるみたいな名前をなんで付けたんだろう?
山下画伯の「お、お、お、おにぎりが食べたいんだなぁ」みたいだ >>805
誤差が±50年とか広すぎるね
西暦165〜200年くらいを卑弥呼の時代にしたいんで幅を広げたのが見え見えだなw >>813
東海道は畿内から見て東にある海沿いの道
そこから道を取って東海ですから
「東海」は畿内から見て東にある海ではありませんね。 >>812
今でも北部九州地域にはヤマトの名称が各地に残っていますから
ヤマトは元々は北部九州地域の名称でしょうね
記紀の編纂時に九州から奈良にうつしたんでしょう。 邪馬台国と無関係に
桃の種が大量に出土なんて
面白いね
芽が出ないのか、ゴミ捨て場だったのかとか思うと そういや栽培とかできないのかね?
古代蓮とかみたいに発芽したら面白いかも なんだかんだ言って天皇制の礎である記紀神話を根底から否定できないから
古代史調査って忖度なしにとことん真剣にはやる気ないんだろうと思ってる 高尾山古墳を見ると卑弥呼の時代にはすでに今の静岡辺りまで連合国の勢力圏だったと見えるから
狗奴国はさらにその北、やっぱり毛野国か?
狗奴国、毛人、蝦夷、この辺りは共通してるとか
毛野国に尋常じゃない数の前方後円墳が造られるのは何か理由があるよな >>804
やっぱり九州じゃん、関西の方残念でした >>804
ハイハイいつもの詐欺ね
インプットデータを恣意的に選んでくればアウトプットも自由自在
この結果に同意した学者は1人でもいるのか?
こんな詐欺をやってるから相手にされんのだけどな 卑弥呼、卑弥弓呼の呼、音では「コ」に比定するのが一般だが、
他に卑狗の表記があり「ヒコ」と読むので、これを妥当の線とすると
「ホ」で深める議論があってもいい。
「呼」は上記2例で「王」の意味合いを持つ。そこで古代の王の意味合いを持つ言葉というと
ミコトのコト - トはツに近かったか摩擦音でコッ 日御言、日御クシ言 △
オウ(意宇)&オオ - 大/王の倭語読み。
ただし古代は母音連続はないので「オホ」の可能性。ミと2重母音でヲホでホの強調。
ま「ホコ」や「ホヒ」「ヒホコ」の山陰系に近い神名もあるけどね。 >>826
纏向は崇神から3代の記紀の記述を裏付けるもので
邪馬台国はわからないし関係ないんだけどな >>832
負け惜しみおつw
都合の悪い学術的結論は全て詐欺とかwww畿内説はやっぱり学問じゃないなwww
>この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。
って書いてあるじゃん
畿内信者「ウ、ウソダコンナノハサギダー」
東大名誉教授「いえ九州で結論は出ています」 >>836
東大名誉教授のほうがお前より頭いいと思うよw
ほんと畿内信者の負け惜しみは醜い >>804
だから奴国が栄えてたのは否定してないって。 邪馬台国は九州、大和朝廷が畿内で確定してる。
えっ、纒向?
ただの豪族の遺跡だわ。
マジで畿内説を唱える連中は起源を主張するのが大好きなチョンそのものだな。 >>835
バカなの?
弥生時代全期間を通しての鉄器の量で比較したら九州が圧勝なのは誰でもわかってる
とくに弥生中期は北部九州の黄金時代
逆に畿内ヤマトは新参であり北部九州への進出が本格化するのは3世紀になってからだ
鉄器の量で公平に比べるなら邪馬台国が実在してたことが文献で確認できる西暦239年〜西暦248年の”入手量”だろがよ
インプットデータを恣意的に選んでくればアウトプットも自由自在になるだんだ、バカ
ついでに言うと、日本の国は鉄貧乏の奈良から統一された
小学生レベルの知識だろが
この時点での鉄器の量は国力とは関係ないということだ >>837
鉄器が多いから邪馬台国って馬鹿だろ
学会では畿内説で確定してる >>840
福岡でしょ。当時の奴国じゃん。
奴国が紀元前から栄えていて大陸との交易も行われてたのは誰も否定していないし
後漢書の時代に金印の件でも朝貢外交をする程の国力があったのは確かでしょ。
でも探しているのは、大陸から見てもっと奥地の邪馬台国なんでしょ。 >>835
インプットデータが適切かどうかは”畑違い”の学者には判断できんのだ、バカ >>833
つうか卑弥呼の「呼」をコと読むのはただの慣用だよ。
三国時代の中国人が日本語のコを表すのに「呼」の字を使うことはあり得ないし、
日本人が漢字を覚えて自分で当て字をしたとすれば「卑」の字を使ったはずがない。
一番ありそうなのはヲで、そうでなければ奈良時代までに失われた音だ。 九州説は鬼の首を取ったつもりだったが恥を晒しただけだったな
世の中の考古学者の全員が間違ってて素人が正しいとかあり得るわけないだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています