良い意味悪い意味抜きとして、浅草とヤクザの関係性は昔から切っても切り離せない根深いもの
それをここ最近誰とは言いませんが余所者が来て歴史ある祭りを否定する流れになっていてとても残念です。

これを読んで少しでもその関係性を理解出来たら有難いことだと思います。

■浅草任侠・新門辰五郎の人生■
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「火事と喧嘩は、江戸の花!」江戸っ子は喧嘩っ早く、見ていて面白い。
火事が多いせいで、火消しの動きがキビキビしていて見惚れてしまう。そんな意味です。
たくましい筋肉もあらわとなる火消し衣装は格好良く、そこに彫られた刺青も鮮やか。
女性たちはうっとりとした目で、彼らを眺めたと伝わります。
さらには火消し同士の喧嘩は、江戸っ子注目の的でもあり。歌舞伎の題材にまでなったほどでした。
そんな粋な火消し「を組」の頭だった人物が、幕末史において名を残しています。
新門辰五郎――。彼は一体どんな人物だったのか。
「を組」の頭、辰五カ幕末に名を残した人物の中でも、おそらく彼は最年長の部類に入るでしょう。
辰五カは、寛政12年(1800年)頃、江戸の中村家に生まれたとされています。
実家が燃え、錺(かざり)職人だった父が焼死してしまうという、
なんとも不幸なカタチで火事との縁が出来た辰五カは、火消しの道に進みました。
色白で酒が好き、器が大きいけれども、火消し同士の喧嘩ならば一歩も退かない。
そんな典型的な江戸っ子だった辰五カ。テキパキとした男で、火消しとしての才覚は確かなものでした。

辰五カが名をあげたのは、文政4年(1821年)のこと。
浅草で起きた火災現場で纏を立てたところ、さる大名火消しが「を組」の纏を倒したのです。
頭にきた辰五カは、大名火消しを纏で殴り、相手の纏ごと転落させました。
慌てた「を組」の頭領・町田仁右衛門が、仲裁に入ってその場は収まりましたが、
怒りの冷めぬ大名火消し側は、下手人を出すように迫ります。そこで辰五カは、
なんと大名屋敷まで乗り込んで、胡座をかいて座ると、こう啖呵を切ったのです。
「俺ァ逃げも隠れもしねえ! 勝手にしやがれ!!」まるで漫画ですよね。
相手は辰五カの気迫に圧倒され、何もできませんでした。
かくして大名火消し相手に一歩も退かず意地を貫いた話は、あっという間に火消したちの中で話題になり、
日頃から辰五カを気に入っていた頭領の仁右衛門は、ますます彼に惚れ込みます。
文政7年(1824年)、仁右衛門は娘の錦を彼にめあわせました。
こうして辰五カは仁右衛門の娘婿となり、文政7年(1824年)に「を組」を継いだのでした。

江戸っ子、しかも火消しとなれば、ちょっとやそっとで退いたら男が廃る。
弘化2年(1845年)、辰五カにまたしてもそんな局面が訪れます。
北風が吹き荒ぶ1月、町火消し十番組を率いた辰五カは、現場に駆けつけました。
「なんだあ、この野郎! どきゃあがれ!」「どけとはなんだ!」今度も相手が悪かった。
これまた気性の激しいことで知られる大名火消しだったのです。
大々的な喧嘩に発展したこの争いでは死傷者まで出てしまい、
辰五カは責任を問われます。そして「江戸払」(江戸からの追放)の罰を受けてしまいました。
それでも辰五カはしょっちゅう江戸に足を運びます。妾がいたのです。
毎日こんなことをしていたものだから、命令違反が発覚。
反省の色がない不届き者として、佃島の人足寄場(今でいうところの更正施設)に送られられてしまうのでした。