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「兵馬俑」の命名者、趙康民氏が死去 発掘・修復の草分け
2018年6月5日 18:26 発信地:東京

【6月5日 東方新報】中国考古学者の趙康民(Zhao Kangmin)先生がこの世を去って、約2週間が過ぎた。この間も、中国を代表する遺跡である兵馬俑(へいばよう、Terracotta Warriers)には毎日、多くの観光客が訪れている。しかし、これらを命名し、修復活動などを進めてきた草分けである趙氏がこうした光景を見ることは、もうない。

 5月16日午後9時半、82歳でこの世を去った趙氏は、その一生を文化財保護事業に捧げた。趙氏が館長として長らく勤めた中国臨潼博物館(Lintong Museum China)には厚さ10センチもある本人の手記が保存されている。手記には、趙氏と兵馬俑との縁が語られている。

「一介の考古学者が、運よく兵馬俑遺跡1号坑の発見、鑑定、修復、命名などに携わることができた。この巨大な秦王朝の地下軍営の秘密を公開できたことは、この上ない幸せなことだ」

 現在、臨潼博物館で、4体の兵馬俑が展示されている場所がある。うち3体の軽武装した兵士俑は、井戸の中から発掘された破片を、趙氏自らが修復作業を手がけた最初の兵馬俑だ。秦始皇帝陵博物院から距離的にもそう遠くない臨潼博物館で陳列された兵馬俑が、一番最初の出土品であることを知っている人は少ない。

■最初に見つけた兵馬俑、「かかし」だった

 初めて兵馬俑を見た時の状況について、趙氏の手記には次ように記されている。

「井戸の掘削を担当していた農民が、出土した秦時代のレンガを私に見せた。その足で、井戸のある場所まで向かう。しかし現場は荒廃していて、周囲では破片がバラバラに見つかった。頭部の一部が木の上にかけられていたり、麦畑には胴体部分が立てかけられていたり。農民の帽子を頭部にかぶったその姿は、まさに『かかし』そのものだった」

 趙氏は現場を片付けた後、3台のリヤカーで破片を回収し、作業場所まで運んだ。その日の夜のうちに発掘したすべての破片を分類して並べ、破片の断面を水で洗浄し、エポキシ樹脂の接着剤でくっつけ、破損か所は石こうで補った。3日かけて2体を修復し、その最初の「兵士」を「秦代武士俑」と初めて命名した。

 李美侠(Li Meixia)さんは、趙氏が臨潼博物館館長時代に陳列部主任を務め、2000年ごろに定年退職した。趙氏とは20年以上、仕事を共にしてきた。趙氏の訃報を聞いたとき、とても辛かったと話す。

「私は今でも趙館長が一人文化財倉庫の中でしゃがみ込み、数千個の破片とにらめっこしたり、修復してたりしている姿が思い浮かぶ。館長は一度しゃがみ込むと、半日ほども座り込んだままになる。イスを差し出しても座ろうともせず、文化財に夢中になっていて、我を忘れているようだった」

 敬慕する趙氏について語り始めると、李さんの目には涙があふれた。「趙康民は、本当にその一生を考古学に捧げた人だ」と言った。

 臨潼博物館職員の携帯電話には趙氏の写真が多く残っているのを、取材を通して知った。趙氏は40年もの間、考古学一筋に尽くし、博物館をわが家のように思い、考古学を大事な事業としてみていた、というのが職員らの印象だ。晩年にも臨潼博物館の発展のことを考え、努力をたゆまず、研究や書籍などの執筆を続けていた。(c)東方新報/AFPBB News