絶滅危惧種
しょうじさんは、死滅を防ぐために保護が必要な種があるという主張は認めている、という。
たとえば、シロナガスクジラは捕るべきではないと。
しかしミンククジラは豊富にいると考えていて、日本沿岸で何が捕れれて何が捕れないか、どうして他人が自分に言えるなのか分からない。
日本の捕鯨を中断させようとする環境運動の活動家たちについては、「寄付をもらうために有名になろうとしているだけだ」と主張する。
けれど話しながら、しょうじ氏にとって、これは伝統とか経済とかの問題ではないことがはっきりする。
彼は、捕鯨を擁護するのに伝統のことだけを言っても、種が危機に瀕しているときに続ける理由としては不十分ですね、と説明する 。
女性がふたりで肉の塊を薄切りにする小さな部屋をひと回りしながら、彼は手ぶりで示す。経済的な議論は、どうみてもあまり説得力はない。
けれど持続可能なやり方で捕鯨を行うことが可能ならば、彼に鯨を捕るなという権利が誰にあろう?
「道理の問題です」と彼はいう。「海外から圧力を受けても、日本政府は捕鯨から撤収すべきではありません」
文化の一部
あとで私は、捕鯨の授業に参加するために呼ばれている町の学校に連れて行かれた。
捕鯨問題に関して日本では公開討論はあまりないが、ここでは子どもたちがクジラ漁のやり方について、きめ細かい議論をしている。
「クジラを殺すのは残酷だと考える人たちがいるのは知ってます」と生徒のひとりが私に言う。「それが、捕鯨に反対する理由です。でも私はここで生まれました。私たちの伝統ですから続けるべきだと思います」
授業が続く中で、世界には捕鯨への反感が少なからずあることに子どもたちは気づいていることが明らかになる。
しょうじ氏、あるいは教師は、そのことを子どもたちに隠そうともせず、彼のすることは間違っていないと認めさせるようなこともない。
とはいえ、教室にはクジラの絵や子どもたちのお気に入りの種類のスケッチが飾られているけれど、他の国々で見られるのと大差なく、子どもたちはクジラは食べ物であると受けとめているようだ。
確かに、日本政府には他の国々の捕鯨反対派にそのことを分からせようとする努力が足りないと、いくぶんフラストレーションを感じていることをしょうじさんは認める。
東京に戻って、水産庁の役人に質問したのがその点だった。彼は肩をすくめた。
「グリンピースのような組織は活動に何百万ドルと使うんだ」と彼は私に述べる。「われわれがそれに張り合って、納税者たちに税金をのふさわしい使い道だと、どうやって正当化できますか?」
クジラを捕る権利があるとする日本の主張は、海外で、とりわけオーストラリアのように頑強に反対する国々で、日本の印象を害している。
しかし、和田のような所で政府が主張を放棄するのが難しい理由がわかる。
ここでは保護問題としてではなく、ほとんど主権問題として見られているのだ。
それで、捕鯨を止めさせようとするどんな試みも、怒りを招くことになるだろう。