【歴史】徳川慶喜の孫娘が95歳で作家デビュー。井手久美子氏の自叙伝「徳川おてんば姫」
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NHK大河ドラマ「西郷どん」で俳優・松田翔太演じる“ラスト将軍”徳川慶喜が脚光を浴びる中、
唯一存命する慶喜の孫・井手久美子の自叙伝「徳川おてんば姫」(東京キララ社)が13日、発売された。
大政奉還から150年となる昨年に書き上げた波乱万丈の人生が明治150年の今年、書籍化され、
95歳にして作家デビューを果たした。千葉県内の自宅で筆者の思いを聞いた。(文中敬称略)
1922(大正11)年9月22日に当時の東京市小石川区小日向第六天町(現在の東京都文京区春日)にあった
徳川家の屋敷で生まれた。「祖父が亡くなって9年後に生まれたので『お写真様』と呼ばれる部屋に飾られた写真を
『おじじ様』と教えられました。“おかか”がおじじ様の好物だったそうです」。公爵で従一位だったことから“一位様”
とも呼ばれた祖父は、日常会話の中で生きていた。
その住所から「第六天」と称され、慶喜が生涯を閉じた屋敷は3400坪で約50人が生活。幼少期から姉たちと庭で遊び、
女子学習院には車の通学を嫌って市電で通った。外で遊べなかったが、学友と敷地内のテニスコートでボールを追った。
乗馬など運動好きで、いつも日焼け。「楽しくて夢のようでした。木に登ったり、おてんばでしたね」と笑う。
18歳で侯爵家の長男・松平康愛と結婚。久美子は「結婚式で十二単(ひとえ)を着たのですが、はかまの丈が短く、
その中に蚊が入ってきて、かゆくてたまりませんでした」と裏話も。夫は海軍少尉として出征。自身は空襲時、
疎開先の八王子で火の粉が飛ぶ中、バケツを持って屋根に上がった。「戦争中は大変でした」。敗戦の玉音放送を聞きながら、
「ほっとしました」と実感したが、翌年、夫の戦死が確認された。
戦後、華族制度は廃止され、戦火を免れた「第六天」は国に物納された。47年、亡夫と成城高校アイスホッケー部で
仲間だった医師の井手次郎と再婚。徳川家のお姫様は病院の仕事で多忙となる。
「泌尿器科の患者さんも多く、包茎だ、パイプカットだという言葉も平気になったのですから、人は変わるものです」−。
50年生まれの長男・井手純は「特殊な所に生まれても、庶民の生活に飛び込んで慣れも早かったところが、
おふくろの気性というか、今でもこうして生きていられるということなんじゃないかと思いますね」と順応性を指摘する。
次姉・喜久子は高松宮妃殿下。「実の家族のようにかわいがってくださった」という高松宮親王を通して兄・昭和天皇とも接した。
第六天の屋敷跡は現在、国際仏教学大学院大学の敷地。久美子は車いすで現地に赴き、今も残るイチョウの下で万感の思いに浸った。
昨年、39度の高熱を出すなど健康面の不安を抱えながら、13年前に着手して中断していた原稿を一念発起で完成させた。
長男と暮らす自宅には慶喜の写真と葵(あおい)の紋が額縁に入って掲げられ、その下で「鬼平犯科帳」など時代劇のDVDを楽しむ。
今年96歳。新刊本を手に「本当にありがたいことです」と実感を込めた。
初の自叙伝を手に、感無量の心境を語る徳川慶喜の孫・井手久美子さん=千葉県内の自宅
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徳川宗家16代当主・徳川家達の妻は島津御四家から嫁いでてはず >>323
家達の妻は天璋院の計らいで、近衛家の姫、泰子。
島津家から輿入れしたのは、息子の家正の妻、正子。これまた天璋院の
遺言で、男が生まれたら島津から嫁を迎えることになっていた。 この人と喜佐子さんは女中の子
正妻の子じゃない
喜久子妃の著書でも家系図に書かれてなかったし
まあ、慶喜の孫なのは間違いない もともとお父さんの慶久さんも女中の子だからね
でも跡取りになったし >>325
庶子であっても、籍に入れられて本宅で育てられてるから、この時代では正式に娘として扱われる。
それに、母親が女中と言っても、有栖川宮家からお付きで来た人だから、現代で考えるような庶民の出ではないよ。明らかにされてないけど、おそらく公家の娘かと。しかも、この女中をあてがったのは実枝子女王本人だし、所謂おしとねすべりで、正妻公認だから。 兵を見捨てて逃げ出し、ひたすら保身のため震えてた慶喜。
あまりに小心かつ卑劣で将軍の器ではなかった。
慶喜の孫に徳川を名乗る資格はないよ。 >>330
一方的な俗説信じてるの?歴史を語る資格が無いね君 >>276
それはあなた。
ウソ歴史に酔って資料を見ない、江戸しぐさ世代(文藝春秋)。 >>328
>>母親が女中と言っても、有栖川宮家からお付きで来た人だから、現代で考えるような
>>庶民民の出ではないよ。
有栖川宮より家格の高い九条家の女中はただの貧農の娘だったよ。
それが九条当主のお手つきになって、昭和天皇の母を産んだ。
女中もランキングがあって上女中とか下女中とか。
天皇家なら女官として雇うから公家の娘もいるけど、
宮家レベルだと公家を女中にしていることはないよ。 >>89
武士をみて育って今はインターネットしている人とかはさすがにいないのかな >>324
徳川宗家徳川家達の壊滅的な女性嫌いは、篤姫の厳格過ぎる教練のせいと思う。
おかげで子供がおらず、会津松平が養子に入った。逆効果ですな。 >>320
その人って現役の公爵で二等兵なんだよね(乙種合格だったからしかたがないが)
でも華族でも軍隊内では殴る蹴るの暴行を受けてたのに、
姉が皇族だとしれた途端、古年兵の態度が豹変して扱いが良くなったらしいな
偉いのは皇族だけなんだなw 田舎者が多い古年兵は華族なんて知らんのだろうな
小学校でも習う天皇と皇族は知ってるけどさw
あと、乙種じゃなくて丙種だったな 徳川慶善に抱っこされた赤ん坊が、まだこの世にいるってのは驚愕だよ・・・
歴史の生き証人にも程があるぞ・・・ 徳川家ってまだ続いてる?
ベトナム人女性と結婚した方は別の徳川家? 途中で書き込んでしまった
紀州が独身の女性が当主で次代消滅が決定してる以外は
御三家は残ってるし後三卿も残ってるし、その子孫の徳川さんもいっぱいいるし
徳川慶喜(公爵)本家は前当主が死んで消滅したものの、その分家の男爵家の子孫生きてるし
要するに徳川宗家(将軍家の末裔、慶喜家とは別)、徳川慶喜家、紀州徳川家が消滅または消滅危機なだけで
子孫は大勢いる >>294
国際基準に合わせただけだろ
それしないと欧米列強に認めてもらえないから マイク真木の先祖が光圀の妹を嫁にした
家康の孫、結構な家柄
本人は人から教えられて知った 、水戸の先祖のお墓がずいぶんデカイなとは思っていたそうで >>334
家中での使用人ならそれもあるけど(お末とかいるしね)、この場合は嫁に出す姫にお付として実家から派遣するんだから、名も無き庶民の娘ではないと思うよ。 >>342
だっこされたのは喜久子殿下だけのような・・・ 徳川の華族はいっぱいいるし島津も皇室との関係によく顔を出すが
維新後毛利家の影はうすい >>351
守護大名が有力大名のまま幕末まで続いたのは島津と佐竹くらいだそうで血筋も良いのは >>351
長州は藩士が動いただけで、藩主家は積極的じゃ無かった印象
跡継ぎが分家からの養子だったのも影響してるかも。数少ない公爵家だけど、あんま偉業ないよね。
強いて言えば、当時、華族の住まいは東京にしか認められてなかったのに、何故か山口に本宅を建築できたお陰で、戦禍を免れた国宝が多数残ってるくらいかも。 昭和の時代は、毎年正月のテレビ番組に
旧華族のお姫様が振袖着て出演してたよ >>345
今から徳川幕府を開こうとすれば一応可能なんだな >>338
養子の件は知りませんでした
会津松平って容保の子孫ですか? >>7
彼女的には
「ちょっと弾けすぎかしら、ウフッ」 >>356
コ川家達に子供はいる。
松平容保の六男の長男の次男がコ川18代現当主
16代当主のコ川家達の長男である17代当主コ川家正、
その長女が松平容保の六男の長男の正妻
現当主は母方の爺さんの養子になり18代になったわけだ。 この人の朝ドラ見たいわ
魔王として覚醒して第二次大戦でアメリカに勝利し
ナチ野郎と最終決戦するifストーリーで >>319
1944年当時、フィリピンには60万人からの日本軍が駐留していた
それだけ居ればまあ何があっても大丈夫だと思うじゃない
しかし日本軍絶対ブッ殺すマンことマッカーサー将軍の攻撃に
50万人もの戦死者を出してもはや前線など消滅してしまった 久美子さん、現在95歳だと
>>364
60万て現在の鳥取県の人口より多いやん >>359
いくら家柄血筋が良いとはいえ、華族じゃなかった松平一郎に、公爵家のお姫様をよく嫁がせたよね、家正 >>366
妹が先に秩父宮に嫁いでいる。宮様の義兄なら公爵の娘も嫁ぐだろう。 もうすぐ死ぬのにこんなの出しても仕方がないだろうが。 ※徳川本家16代の子孫は 断絶
(徳川慶喜15代以降は分家扱い。子孫は本家じゃ無い)
※尾張徳川繁栄
※紀州徳川は 独身高齢女性子孫無し(分家関係無し)断絶
※水戸徳川繁栄 慶喜は、神君家康公の言いつけに背き、水戸の出なのに将軍となたクズ。
そして案の定、岩倉がでっちあげたニセ錦旗にビビッて徳川幕府を滅ぼしてしまう。
家康公が生きてたら恥さらしの慶喜を叩き斬ってるはず。 >>374
薩摩島津家・別邸庭園の仙巌園で開かれる春の催し曲水の宴に
公家摂関筆頭家の京都近衛家
江戸徳川将軍宗家
御三家筆頭家の尾張徳川家
譜代大名筆頭格の彦根井伊家などなど
仙巌園に日本の名家中の名家の現当主達が勢揃いして
公家や武家の古式正装に身をまとい優雅に和歌を詠んでた 朝ドラ向きだけど、将軍家だとセットが
大変そうだよな。 朝ドラの予算じゃ前半生のきらびやかな部分が難しそうだね >>381
徳川家は維新後、目立たぬように気をつかっていたから、他の大大名華族よりは質素。
そんなかでも、慶喜家は宗家に遠慮してさらに質素だから、いけるんじゃね? おねえさんの喜久子妃が書いたものかなんかで
遠足のお弁当かなんかのリクエストを聞かれて素直に答えたら
食い物の好き嫌いなどいうべきではないと怒られたとか
もの凄い質素で堅苦しい暮らしっぽかった >>388
お前は部外者だろ。
そこで黙って水戸れ。 存命中のけいきさんと接点があればドラマ化出来たね、惜しい >>387
高級なものといことではな、くあれが食べたいこれは嫌だ、と言うことが
贅沢、という考えだったみたいだね
普段は出されるものを素直にいただくのが良いこととされていたが
遠足の前日には出入りの和菓子屋が何種類もの菓子を見せに来て
その中からいくつかを遠足のおやつ用に選ばせてくれたことが喜佐子さんの本で書かれている
庶民なら駄菓子屋に行って学校から決められた額内であれこれ選ぶが
自由に買い物に行けないからなあ >>394
食べるものとか、お金とか、そう言うものに言及するのは宜しくないって言うことらしいね
酒井美意子さんとか、キッチン覗いただけで怒られたとか書いてたし
食事とか風呂とか庭仕事とかに従事する使用人は御目見え以下の扱い 嘘だと思うが40年くらい前に死んだウチの爺さんが、子供の頃に静岡に住んでいて徳川慶喜に遊んで貰ったことがあるとか言ってた。
慶喜をよしのぶではなくてけいきさんとか言ってたがw
もうボケてたんだろな。けいきってなんやねん!と。 俺の父方の祖母の父は満州と半島の米を内地に輸出して巨万の富を得てた、祖父の父は台湾省から総督府へ
母方の祖父の父は軍人で祖父は電力関係の役人
戦争にさえ負けてなければ、俺は好きな研究をしながら、お金にを稼がなくても良い環境で生きていたんだろうな〜 >>399
ヒエラルキーを考慮したら、その後の婚姻関係がガラッと変わるし、オマイが生まれてない可能性もあるw >>401
まぁその可能性は有るけど両家ともに雄藩の武家だし父と母までは普通に政略結婚みたいなもんだ >>397
俺のばあちゃんも子供の頃にケイキさんに遊んでもらってる
今生きてれば110過ぎかな 静岡じやケイキさんて呼ぶ人多いってのは覚えておくといいね >>402
ま、満州絡んでるなら、戦争に負けてなくてもいずれ中国にやられてるだろーね 自分は妾囲って子供まで産ませてるのに嫁が役者と遊んだら髪の毛引きずり回して怒ったんだっけ
すごい夫婦仲が悪かったとか
男って勝手ね >>405
静岡じゃなくても普通らしい。徳川一門の身内同士でもケイキって言ってるみたい >>408
そうなんだ
子供の頃から俺はずっとケイキだと思ってた >>409
証言あるけど?
松平幸子子爵夫人の証言
*慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で、趣味の範囲が広い。
しかし、慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと、対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
美枝子様は慶光様をお産みになったあと少し胸を悪くなさいまして、
一時期転地療養をなさったことがあるのです。
美枝子様というお方は歌右衛門が舞台でやる女形に似た美人のうえ
お気持ちのお優しいお方でしたので、
転地をなさる前に慶久様に御不自由をおかけしては申し訳ないという
お考えになられたのでしょう。御自分も納得の上で
宮家から連れてきた御側女中の中から一人を公にかしずけておきました。
慶久様は必然的な御身体の御要求かは存じませんが、
この女性を心底お好きになられてお愛しになったようです。
これはお父上や御兄弟と似た御性格でひとことに没頭なさいまして、
お二人の女のお子様をお産ませになるのです。
そろそろ美枝子様の御身体も回復なさっていらっしゃって、癪にさわってきたのね。
役者遊びをなさるようになったのだそうです。
そのうちにおみお腹もただならずおなり遊ばしたのね、妊娠したのよ。
慶久様は美枝子様のおぐしをお持ちになり、
お引き回しにされたことも何度かおあり遊ばされたということでした。
あまり御夫婦喧嘩かひどいものですから仲裁するお方があり、
再度日赤の顧問だか特使だかになってもらい、
渡欧だか渡米だかをしてもらうお約束が出来ていたのですよ。
冷却期間を置かせようとしたのでしょう。それで出発の期日も決まっていたようです。
その頃から公の毎夜召し上がる睡眠薬の量も急増しましたし、
自殺のように一部の方は思ってらっしゃるけど、
自殺じゃなくて眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だったの。
慶久様がお妾にお産ませになった二人のお嬢様は
無事育ってお嫁にいらっしゃいましたけど、美枝子様の方は存じません。 孫がまだ生きてるってのもスゲエが、95で作家デビューってのもスゲエ 倉富日記 大正10年12月20日
<倉富&牧野伸顕の会話>
牧野◆徳川慶久が一昨年頃、西洋より帰りたる後嫉妬を起こしたり。
その原因は不在中 妻が待合に行きたること家扶と私したることありということ等なる由。
慶久は一度は離婚を言い渡したるも妻これに応ぜず。
ある時は妻を厳責したるも服せざるため、ついに刀をもってその髪を切りたるも、
わずかに切りたるのみなりし由。その後 妻は葉山の有栖川宮別邸に行き居る由なり。
慶久は近々洋行する由なるが、娘喜久子を伴い妾を随行せしむる由にて、
妻は異見なきも娘が悪感化を受くることを気づかいおるとのことなり >>411
それ、実在の人の名前じゃないから匿名の証言 >>415
倉富日記がある以上どうしょうもないねw >>414
これに関しては、その後の自殺?もあるし、精神を病んでいた模様
つか、同じ日記に、妾は正妻が勧めたって書いてあるじゃん。子ども三人続けて流産したからってさ。 >>411
有栖川から上がった實枝子さんは胃癌で死去
開腹手術受けたときには手遅れでそっ閉じ
喜佐子さん久美子さん学習院初等科を卒業して間もない頃の事 >>418
いや、だから証言の方と日記の方で同じじゃないじゃん……
似てるけど違う
ワイドショーと新聞くらいには違うわw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています