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平城京はもっと広かった? 南端の九条大路南に道路遺構
筒井次郎
2018年6月13日10時18分

 奈良県大和郡山市の平城京南方遺跡で、奈良時代の都、平城京(710〜784)を碁盤の目状に区画していた条坊(じょうぼう)の一部とみられる道路遺構(8世紀前半)がみつかった。市教育委員会が発表した。2007年の調査で、京の南端とされてきた九条大路の南側で十条大路跡の一部とみられる遺構が確認されていた。市教委は造営当初はより大きな南北十条の構造だった可能性が強いとみており、平城京の造営過程の解明に迫る成果として注目される。

 平城京は、中国の都にならって碁盤の目状に東西・南北に走る道路で区画され、中央を南北に走る朱雀(すざく)大路を境に東の左京、西の右京に分けられていた。市教委によれば、昨年3月と今年2〜3月、九条大路の南側の右京域にあたる2カ所で計204平方メートルを発掘調査し、それぞれの調査地から東西道路跡(幅6・5メートル)と南北道路跡(幅4・2メートル)がみつかった。

 東西道路跡は九条大路と十条大路の中間に位置し、大路よりも幅が狭い「条間路(じょうかんじ)」とみられる。南北道路は朱雀大路と西一坊大路の間を並行する「小路(こうじ)」とみられ、右京域まで条坊が整備されていたことが明らかになった。奈良時代の中ごろに意図的に埋められ、何らかの理由で短期間で廃絶されたとみられる。

 千田稔・奈良県立図書情報館長(歴史地理学)は「当初の平城京は、遷都前の藤原京(奈良県橿原〈かしはら〉市)の南北十条を踏襲して設計されたが、中国の知識を持っていた有力貴族の藤原不比等(ふひと)らが、奇数を『陽』とする中国古代思想を採用し、造営中に九条に変えたのでは」とみる。一方、小沢毅・三重大教授(都城考古学)は「京の一部ではなく、造営の際の事務所や作業員宿舎などとして使われた区画ではないか。工事が終われば要らなくなり、早い時期に廃絶されたのでは」と話す。

 現場は埋め戻され、現地説明会はない。(筒井次郎)