広島市の町は三角州上に発達したため、常に洪水の脅威にさらされていました。
江戸時代には大きな洪水は約30回を超えています。

特に、大正8年、昭和3年の洪水被害は大きく、これを受けて地域の人々は
太田川の本格的な改修を国に強く求めました。延長9kmの放水路を造ることでした。
戦争や原爆投下による一時中断はあったものの、36年の歳月を要し昭和43年放水路は
完成し、以来、三角州内が水没することはなくなりました。