5.魔剣奥州兎丸

基本的にこの妖刀は手入れ不能とされ、封じの桐箱には絶対に目釘をいれてはならぬと古来より但し書きが貼られているおぞましい妖刀である。

この妖刀の由緒は鎌倉期の奥州風土記今昔伝という説話の中において確認することができる。

平安期、奥州の山深い鍛治集落で若くして刀鍛冶の才覚を現した兎丸という刀匠がいた。
彼はいつしか普通の刀剣に飽きたらず「魔剣」の製作に取りつかれた。

毎夜のごとく墓場に向かい、剣に長けた故人の墓を暴いてはその遺体を燃やした炭で鋼を造り、名高き戦死者の墓を暴いては骨で刃を研いだという。

造られた刀は五尺の大太刀
反りは浅く平安期の古刀の面影を残す漆黒の鋼に、所々渦巻く柾目紋様が妖しく乱れる。

完成した日、
兎丸はその魔剣の目釘を留めた瞬間に豹変した。
周囲の鍛治仲間を見たことのない剣技で惨殺し、鍛治集落を一人残さず殺しその集落は廃村となったと云う。

事態を重く見た藤原清衡は兎丸征伐のために300の兵を差し向け、半数を失ったのち兎丸を成敗したという。
すぐさまこの魔剣は神仏の祓いを施されたが全く効き目及ばず、柄を握ったものは全て強武者に変貌した。

さらにこの兎丸を鋳潰そうともしたが何故かこれも叶わず、困惑した清衡の命により鞘の逆側を柄に偽装し命釘を抜いて刀を抜けぬように細工して兎丸を封印し、神社の土中に埋めることとした。

時は流れ鎌倉の初め
奥州藤原氏は滅亡の危機に瀕していた。
源頼朝の差し向けた奥州征伐軍に狼狽した藤原泰衡は、最期の望みをかけ先祖より言い伝えられた魔剣兎丸の封印を解くように命じた。
しかしこの魔剣に目釘を入れた瞬間に制御不能となり泰衡の軍は兎丸によって半減されたため征伐軍に惨敗したのだという。

この伝説の後、この危険きわまりない魔剣は各地の刀鍛冶に研究材料として回された後、室町時代半ばにはすでに妖刀の封じに定評のあった関の刀匠たちに渡ったと云われる。