※続きです

さらに、2012年には、プリマス大学の社会心理学者Sylvia Terbeckらの研究グループが、高血圧の治療薬であるβブロッカーは、人種差別的な反応を減少させる効果があるという研究結果を報告している。
この研究では、健康な白人のボランティアを二つのグループに分け、一方には本物のβブロッカーであるプロプレラノール40mgを、他方のグループには偽物を服用してもらい、服用から1〜2時間後に、潜在的な人種的偏見を測定するテスト(IAT)を受けてもらった。
黒人と白人の写真を、好意的か否定的かに即座に分別してもらうというものだ。

その結果、本物のプロプレラノールを服用したグループでは、潜在的な人種偏見の傾向が著しく低下したのだ。
このように、いくつかの薬剤には「道徳ピル」と呼ばれ得る効果が実際に確かめられている。

他方では、薬剤の影響で偏向的になったり、必要な感情的反応全般が鈍くなるなどの副作用も確認されている。
そのため、「道徳ピル」がすぐさま世界中に普及するというわけではない。
しかし、その実用化は着々と進んでいるのだ。

前述したPersson やSavulescuなどは、副作用や倫理的な問題に言及しつつも、「道徳ピル」を擁護する。
科学的な進歩の負の側面として、容易に多くの生命を死滅させる手段が紛争やテロ行為に用いられる可能性が増す今日では、科学的な手法で道徳感情を増進することは、いまや私たちに課せられた義務だとさえ言っている。
Savulescuは、2008年の論文でこう述べている。

〈もし安全なモラル・エンハンスメントが開発されれば、それは教育や水道水中のフッ素のように義務化されねばならないという強い理由がある。
なぜなら、モラル・エンハンスメントを必要とする人間たちこそは、もっともそれを受けたくない人々であるだろうから。
つまり、安全で効果的なモラル・エンハンスメントは義務化されるべきなのだ〉

■認知能力を高める「スマート・ドラッグ」もある

実は、道徳ピルのなかには、これまで見てきた協調性や共感を増進させるのとは別のタイプのクスリもある。
知性を改善するクスリだ。「スマート・ドラッグ」とも呼ばれる。

一般に、集中力や注意力、記憶力などの認知機能を増進させる効果を持つ薬物を指す。
その代表格がリタリン(物質名:メチルフェニデート)だ。

リタリンは、そもそもはADHD(注意欠如・多動性障害)の症状を緩和するための薬物で、ドーパミンなどの神経伝達物質を活性化すると言われている。
注意欠如の症状を緩和することは、注意力を補うとも考えられるから、障害のない健康な人が飲めばいっそう注意力が増すと信じられるようになった。

米国では、多くの学生が成績向上や適性試験をパスするために、リタリンを治療以外の目的で服用しているとの報告がある。
リタリンを服用すれば、大学進学適性試験(SAT)の点数が100点以上UPすると信じられていることもあり、あるキャンパスでは、成績向上のためにリタリンを服用する学生は全体の16%に上ったという。
他にも、睡眠障害(ナルコレプシー)の治療に用いられるモダフィニル、デキストロアンフェタミンを含む混合アンフェタミン塩などの神経刺激薬や、アルツハイマー病を治療するために使用されるドネペジルなどの認知症治療薬が、知性を改善すると信じられており、リタリンと同じように治療以外の目的で、学生やビジネスマンなど多くの人々にすでに服用されている。

このような薬物の服用は、効果の信ぴょう性はもとより、入手方法の違法性や副作用、公平性など多くの問題をはらんでいる。
しかし、いくつかの調査報告が、すでに相当数の人びとが服用していると明らかにしているのだから、より効果的で、副作用が少なく、しかも安価な「スマート・ドラッグ」が開発されれば、いまよりもっと多くの人が、「スマート・ドラッグ」を服用するようになるだろう。

■「知」と「情意」の両方が発展しなければならない

読者の中には、「スマート・ドラッグ」が認知機能を増進するなら、モラルを向上させるタイプの「道徳ピル」は蛇足なのではないか?と思う読者もいるはずだ。
この疑問を解くには、主知主義と主意主義という対立的な哲学的立場の理解が役に立つ。

ざっくり説明しよう。古代や中世の世界では、十分に知的であれば物事の是非が分かるはずだから、「知」こそが、道徳的な行為の梃子だとする立場があった。
これが主知主義だ。

※続きます