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●朝廷の平定による蝦夷支配は進んだが奈良時代末になると蝦夷の集団による反乱が続発する

780年 
宝亀の乱(ほうきのらん)、伊治呰麻呂の乱
陸奥国伊治郡の大領・伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が伊治柵で反乱。
按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害し、加賀柵を陥れた。

※按察使(あぜち)とは
奈良時代に設置された地方行政を監督する令外官の官職。
数カ国の国守の内から1人を選任し、その管内における国司の行政の監察を行った。
平安時代以降は陸奥国・出羽国の按察使だけを残し
納言(大納言・中納言)・参議などとの兼任となり実体がなくなった。

789年
桓武天皇の命を受けた征東大使(せいとうたいし)・紀古佐美(きのこさみ)は大軍を率いて
蝦夷の制圧に向かったが、北上川沿いの胆沢地方の族長・アテルイに散々に打ち破られてしまった。

794年
征夷大使・大伴弟麻呂、副使・坂上田村麻呂は10万余りの大軍を率いて蝦夷の集団を個別征討。
坂上田村麻呂はこの征討で活躍し、陸奥出羽按察使(あぜち)、陸奥守、鎮守府将軍に任じられ
797年に征夷大将軍に昇進。801年にも東北津々浦々に遠征に出て制圧に成功を収め
802年には胆沢柵を築いて鎮守府を多賀柵から移すなど、東北地方の平定に多大な功績を残した。

※征夷大将軍
『征夷』とは、東夷を征討するという意味。征夷将軍は、『夷』征討に際し任命された将軍。
武士階級における最高位を示すようになった。
後に鎌倉幕府、江戸幕府を創設する源頼朝、徳川家康もこの地位を天皇から任命された。

こうような東北における大規模な軍事活動は国家財政を圧迫し、のちに天皇は派遣を止めてしまう。
嵯峨天皇の時代に文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が派遣され、
811年に徳丹柵(岩手県矢巾町)が築かれ、以降は大きな反乱もなく、蝦夷の住民は同化政策により吸収された。