>>335
いや…坂上田村麻呂の後、奥六郡の南半分では、朝廷による掃討戦と新規植民つまり人種置換があったんじゃないの?
一瞬だけだけど、朝廷の最前線が盛岡(斯波)まで伸びる。この時だと思う。

相去の伊達/南部の戦国大名間分割よりずっと前から、どうも北上盆地(奥六郡)は南北で分断されてるように思う。
顔立ちからして違う。北上市以南では、なんつうか小沢一郎みたいな顔が多いw
36年戦争後、南側は強力に大和化(関東農民の大量入植)し、他方で北半分は半ば放置され、
その不安定な「国境地帯」で、俘囚だの何だの自称する武家の勃興がおきたんじゃないかね。