【岩手】蝦夷のリーダー“アテルイ” 「大墓公」姓、朝廷が授与 「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」
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墳丘上から杉の木が伸びる角塚古墳。古代から「胆沢地域のランドマーク」だった可能性がある(奥州市で)
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角塚古墳周辺の主要な遺跡
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由来「古墳」「田茂山」からか
平安時代初期、胆沢(現奥州市)を拠点に朝廷軍と対立した蝦夷(えみし)のリーダー、アテルイ。今も歴史小説やドラマ、舞台の主人公として人気だが、文献上の記述は少なく、その生涯には謎も多い。近年、遺跡の発掘成果などを基にした新たな研究で、意外な人物像も浮かび上がってきた。その一端を紹介する。
世界遺産候補になった大阪府堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)で知られる前方後円墳。円形と台形の墳丘を合わせた堂々たる造りで、大和王権の権力のシンボルとも言える有力者の墓だが、奥州市胆沢には国内最北の前方後円墳がある。
角塚古墳は全長約45メートル。高さ約4・5メートルの円形の墳丘から立派な杉の木が伸び、地元では「一本杉」の愛称で親しまれている国の史跡だ。築造は5世紀後半とされ、同じ胆沢で8世紀後半に活躍したアテルイとは約300年の開きがある。近年、二つの時代をつなぐ発掘成果が相次いでいる。
◇
角塚古墳周辺の繁栄の様子が分かるのは、約2キロ北にある5世紀代の中半入(なかはんにゅう)遺跡(奥州市水沢)だ。大阪府産の須恵器や宮城県産の黒曜石、久慈の琥珀(こはく)などが出土しており、近畿地方の古墳文化の影響を受けつつ、北東北の文物も受け入れている。
石包丁などもあり、胆沢周辺ではコメ作りが盛んだったことがわかる。より北の地域では弥生時代に稲作が流入したが、寒冷のため根付かなかったとされる。胆沢は農業文化圏と非農業文化圏の交接点で、角塚古墳に埋葬された人物は、両地域の物資の流通を通じて力を蓄えた有力者の可能性がある。
その後の遺跡として注目されるのが、5世紀後半〜6世紀前半の墓がまとまって見つかった沢田遺跡(奥州市胆沢)だ。角塚古墳の築造に関わった勢力の末裔(まつえい)による遺跡と解釈されているが、前方後円墳ではないため角塚古墳の被葬者より格下とみられる。
当時は大和王権の力がより強固になり、東北でも徐々に地域の有力者の力がそがれていったとされる。墓の形の変遷は、中央と地方の力関係の変化を示しているのかもしれない。
◇
沢田遺跡に隣接する石田I・2遺跡でも大規模な集落跡が見つかっており、特に7世紀後半〜8世紀前半には竪穴住居が急増した様子が見てとれる。水田が広がり、南北の交易地として繁栄した胆沢でアテルイは生まれ育った。
姓の「大墓公」は朝廷から与えられたものだ。この時代の文献では前方後円墳を「大墓」と称する例がみられる。地元の歴史研究団体「アテルイを顕彰する会」事務局長の朝倉授(さずく)さん(68)は「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」と解説する。大墓を「たも」と読み、奥州市内の地名の「田茂山」が由来とする説も根強い。田茂山はアテルイが朝廷軍と戦った場所で、この説を有力視する研究者も多い。
いずれにしても朝廷から姓を授けられたという事実は、アテルイ一族が朝廷と良好な関係を深めていた証しだ。アテルイはどのような心境の変化から“反逆者”になったのだろうか。
アテルイ
本名は大墓公阿弖流為(おおはかのきみ・あてるい)。8世紀後半〜9世紀初頭、現在の奥州市を拠点に、朝廷に属さない蝦夷を率いた。延暦8年(789年)に朝廷軍を破ったが、同21年(802年)に征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、河内国(現大阪府)で処刑された。
読売新聞 2018年08月07日
https://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20180807-OYTNT50058.html DNAスレの続きと化したようだが
調べれば調べる程、嫌いになるのが朝鮮人ってのは変わらないな
自国でも他国でも嘘ばっかり 他所でNGしてる奴がまた暴れてるなw
ここでもあぼーんだらけになってて吹いた
まぁどうせ消してるから見えない所でせいぜい喚いてればいい >>21
安倍首相が蝦夷の首長安倍氏の山口に流れた末裔と言われてるね エミシがD系統、藤原氏が江南系統だとすれば興味深いな
圧倒的にD系統の戦闘力が上回っていたことを証明する貴重な歴史の記録になる
よく藤原氏と田村麻呂の勝利と誤解してる人がいるが
このへんはちゃんと歴史の授業で教えて欲しい
朝廷軍は4度の出兵にもかかわらずほぼ成果を残していない
かえってエミシの戦闘力に大敗しあるいはエミシを利用してエミシ同士の内戦を起こしたに過ぎない
朝廷側の得た城(柵ふくむ)も大半はすぐに放棄されあるいは縮小された
田村麻呂最大の成果である盛岡の城もわずか20年以内に朝廷の支配から離脱したようで朝廷側の記録すら残っていない
多賀城はエミシに焼き討ちされ消失
朝廷には恥の歴史でしかなかった 人類学者・鳥居龍蔵は、1890年代に、東京・関西・四国等の被差別部落の人の外形を調査し、
「朝鮮人の帰化せし者なりとの説は少しも信ずるに足らざるなり。蓋し一も其帰化らしき体質を認めざればなり。
若しも彼等が朝鮮的体質なるならば彼等の目は必ず蒙古的ならざるべからず。亦頭形がブラキセフワリック即ち幅の広きものならざるべからず。
然るに彼に在りては此要素を少しも認むる能はざるに於ては寧ろマレー的体質を備ふるものに類似せるなり」との調査結果を発表し、
朝鮮人説を完全に否定するとともに、被差別部落民には「蒙古眼(蒙古襞)」がみられない南方系の人種であることを強調している。
なお、このように、頭長で蒙古眼がみられないという特徴は、アイヌなどの古モンゴロイド(縄文人)のそれと一致する。
また、戦後になると、大阪大学教授の小浜基次(人類学者)が、形質人類学により、
47の被差別部落を含む全国的な調査を行ったが、被差別部落民は周辺地域と比較して中頭型の性質を示したという。
朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区内においても、一般集団との差異が少ない地域においても同様であり、
被差別部落民の形質は周辺地域の人と差異があったという。小浜は、被差別部落民は形質的に東北人と一致していると結論づけた。 縄文時代の痕跡はあるか
http://blog.livedoor.jp/bfr4cadg/archives/2076537.html
◆竪穴式住居
「埼玉県北足立郡新郷村
鳥居龍蔵が初めて被差別部落の調査を行ったことを確認できるのは、1893年12月に大野延太郎とともに赴いた同村M地区である。
同部落で鳥居と大野が調査したのは、「むろや」と呼ばれる「掘タテ小舎」についてである。
「むろや」は同地区の家屋にほぼ一軒に一つずつ設けられている小屋で、
四角形の穴を一尺四五寸から二尺四五寸くらいの深さまで掘り、その上に藁や蓆を敷いたものである。
穴の内部は四方の土壁に蓆を張り、竹木で固定する。
さらに木で三角の屋根を組んで藁を葺き、この屋根に地上からの出入り口を設け、梯子をかけて室内に入る構造となっている。
報告では、古来「むろ」と呼ばれてきたこの小舎を、同地の住民は冬期に寒さを防ぎ、
竹細工をする作業場として利用してきたことを、スケッチとともに紹介している[大野・鳥居1894]。」
http://livedoor.blogimg.jp/bfr4cadg/imgs/6/4/64ab1598.jpg 朝廷の蝦夷対策は直接統治じゃなくて在地の勢力に地位を与えて同化させる方法だな
何度か攻撃を加えて存在を示した後に巧みな外交によって取り込んでる
ちょっと後の時代になると前九年後三年と殆ど地方武士と変わらん存在になっている >>518
北関東では、被差別部落民(被差別部落はなく、村落の周辺に被差別民がいる)に限らず、ムロを利用してた。
むしろ、被差別民はムロを利用するほどの耕作地を持っていないことが多いので、地主の家にあったかな。 >>515
俺の本姓は安倍
安倍姓〇〇の
〇〇が苗字 >>519
東北人は、関東人から見ても同じ人種じゃない人多いもんな。 >>516
そういう韓国の歴史研究みたいな「あべこべファンタジー」はやめてくれないかな…w
>>519
そうそう、そういうこと。
ただ、繰り返すけど奥六郡南半分ではそれにとどまらなかったように見える。
栗駒以南がそうであるように、関東から入植者を入れてる。 朝廷は遠隔の関東や東北については現地勢力に大幅な自治を与える形で懐柔している
強力な現地豪族をけん制、分割するために降伏した蝦夷の俘囚や大陸から来た人間なんかを混在させて対立させまとまらないように仕組んでる
阿倍や藤原、上下毛野とかの名前を俘囚や帰化人に与えたりして在地豪族のまとまりを防いだりもしてる
その争いに付け込んだりして徐々に朝廷の影響力を拡大させている
中々巧妙 巧妙に朝廷側のエミシと貴族とを混在させて内部監督もするんだけど
結局貴族は戦さのド素人で役所仕事が専門
朝廷側のエミシは百戦錬磨の傭兵だから気が合うわけもなく信頼関係もない
最後は貴族が追い出されて朝廷側のエミシが実権を握る
貴族の方もこんな奥地で勤務しでも1ミリも実績にならないから京都に帰ってほっとするわけだ 朝廷の支配ってのは一部敵勢力を懐柔優遇して
敵同士を反目させあうのが基本
徳川でも結局仲の悪い大名同士を隣り合わせてたってのと同じなんやろな >>508
「偽書」てのは(客観性が不明な)正史と記述が一致しないという意味でしかない
「東日流外三郡誌」は伝古代と主張しているだけで実態は幕末にまとめられた書群だからね
しかも歴史書としてありがちだけど後代に写本を作るときに新たな知見を追記している
「偽書」キャンペーンを張った連中はそこが理解できず現代作成とトンデモ認定したたわけだけど論拠は非常に脆弱 >>529
ところが、蝦夷は結局懐柔できなかった。
東北の北まで支配地区になったのは鎌倉時代だから朝廷じゃないしな。しかも蝦夷出自の大名がいる始末。 日の本将軍がアイヌの長で安東。蝦夷大乱と元との戦以降衰退し経営力が無くなったんじゃない? 平安末期位になるといわゆる蝦夷っていう存在は事実上消滅してるな
単なる現地の地方豪族になってる
盛んな交流の結果そうなってる
民族系のネタでよくある朝廷の侵略で滅ぼされた可哀想な縄文ゆかりの人々とか言うトンチキな流れじゃないな
朝廷はずっと間接統治と言うか、殆ど放置してる状態だったわけで在地の勢力は実際はそのまま維持されてる
たまーに阿倍比羅夫や田村麻呂みたいなのが遠征していくくらいだからな
長い間を掛けての交流の結果 >>32
というよりは郷士階級は確かに元長宗我部方の武士もいるが、
才谷屋のように商人階級から武士になる家も少なくなかった
もちろん株を買って武士になる
うちの家なんかはそれなりの郷士だったみたいだが、炭を作って売っていた
郷士のほうが多いから杜撰な階級制度が生まれたんだが、
それ故にブルジョワジー的な存在が割りと身近だったといえる >>534
914年の十和田湖火山の大爆発すら文献に残せなかったのだから統治どころじゃない。一旦影響力を及ぼした地区も放棄している勘定にならなきゃこんなことにはならない。 >>9
蝦夷は寒すぎて領土にする余裕がなかったから
だと思うぞ
東北も青森の話なんか中世史のなかでも聞こえてこないからな
割りとマジで米のために大和民族が拡大してきたんじゃないかと思っている 田村麻呂とそれに先行する時代に朝廷は沢山の東北の城柵(エミシ支配のための軍事・行政拠点)を作り
それが教科書に地図で載っている。
細かい柵も入れると20ぐらいはあるからまるで朝廷の東北支配がこれらの城柵で完成したと誤解する受験生も多いだろう
しかし実際はこれらの城柵は短いものは10年ぐらいで放棄されたのである
9世紀初頭に朝廷のエミシ戦争が集結すると大半の城・柵は意味をなさなくなる
9世紀全体を通じて実際に朝廷の兵や朝廷側のエミシ(いわゆる俘囚)が防衛していた城柵は
わずかに秋田城、多賀城、胆沢城ぐらいのものである
これらも10世紀に入ると活動の記録がほぼなくなる
朝廷の東北支配とはこれらわずかな勢力拠点に兵を置きしかもその兵の多くがエミシ(俘囚)という極めて脆弱なものだった
一例として9世紀後半の秋田城における大規模な俘囚(エミシ)反乱を見る。
秋田は朝廷が非常に古くから開拓した役所であり、役所中心にエミシの集落が形成された経緯があった
この友好的な秋田エミシが反乱した理由は、国司貴族による過酷な重税とされている
朝廷は鎮圧を図るが反乱エミシのほうが強く結局秋田城は焼失してしまった
鎮圧に当たった朝廷軍は結局鎮圧は無理と諦めて逆に罪を許し税を減免することを通告する。
結局これで反乱軍は帰順するのだが、
すでにこの時期でさえ、朝廷はエミシを制御する能力がほぼないことが見て取れるのである >>527
適当なざっくり感で東北日高見を語るんじゃない
お前が言ってるのは500年〜600年代以降のことだな
東北の言向けは300年代前後から中央派遣の武官によって
始まってるが、せめて文献資料は自分で目を通せ
そのざっくり流に合わせて書けば中央武官の現地同化が
始まり、自ら現地側に立つもものが現れたということだ 姓を与えられるてことは
その時点で大和朝廷に組み込まれてんだよな
だんだんと自治権が削られて行って
たまらずに反乱て感じなんかな 田村麻呂死去以降は朝廷は大規模な軍勢を送ることがなく
またその能力もなかったのだろうね
どの城柵もだいたい俘囚(エミシ)の軍隊の防衛に頼っているし
城柵の活動じたいが廃止されてるところが多い
9世紀には朝廷は東北経営を概ね諦めていたのが実情じゃないのか >>539
自民族の文字すら作ろうとしないような蛮族に
英雄とかpgrってこと >>547
しかしその蛮族とやらにボロ負けしてた朝廷もなんだかなー >>546
軍事的手段から経済的手段に転じたんだろうな
地元の首長を懐柔して農地を与えて定住生活をさせる
こうなると逃げられないし、反朝廷の強硬派切り崩しにもなる
アテルイ達が孤立して降伏したのも、他の首長たちの支援が得られなくなったってのが大きいだろうし
当然それを狙って国府あたりが色々工作した可能性が高いと >今も歴史小説やドラマ、舞台の主人公として人気だが、文献上の記述は少なく、その生涯には謎も多い。
韓国ドラマを笑えんだろ是w >>550
アテルイより前だが俘囚(エミシ)出身のこれはりのあざまろ
という人がいる
これは伊治城を防衛していた俘囚長なわけであるが
官位を授かり、倭人貴族とも対等に話をできていたようだ
結局反乱を起こして多賀城を焼き討ちして無事逃亡するのだが
つまり俘囚長の実情は、朝廷にお金や物資で雇われた傭兵というのが実態なのではないだろうか
その働きにみあった報酬をもらえるうちは協力する関係なんだろうね >>548
>>551 の通り韓国ドラマ以下なんだから英雄なわけない。
>>549
イナゴの被害が大きかったからといって
イナゴは英雄ではない。 >>553
文明の程度だの韓国ドラマだのなにいってんだおまえ 日本は中国から漢字を輸入して仮名を作るまで文字は無かった
そもそも言葉を文字にして記すという概念が無かった
全て口伝で、記録は記憶頼りだった そもそも朝廷がまともにエミシに戦って勝てたことがあったのか?
アテルイは最初の征伐では10倍以上の朝廷軍を破り千人ぐらいが死傷してるようだが
この強さはもはや別格だろう
アテルイが田村麻呂に500人を連れて投降したとあるが
これは上記の強さから言って通常ありえない
おそらく帰順すれば罪を許しエミシ全員の安全を保障するという和睦を持ちかけたのだろうねえ
あまりにも汚い朝廷側の謀略で反吐が出るね
こうした汚いことばかりやってるから朝廷はエミシの信頼を得ることはなく
結局東北経営からすぐに撤退する羽目になる
10世紀になると朝廷の勢力なんてほぼ残ってないな 文字もねぇ、記録もねぇ、文化の意味もわがらねぇ!
オラこんなとこ嫌だぁ〜! >>556
10万の大軍まで動員して本気で潰そうとしてたくらいだからな朝廷は
その兵員や物資の輸送などに徴募されたのが関東諸国の人間でそこから武士団が生まれたくらいだから ちなみに桓武天皇も、即位以前から藤原氏が東北経営にのめりこんでいたから
その流れで田村麻呂に征伐を命令しちゃった
即位まもない桓武天皇の一大号令だから田村麻呂も張り切って
どんな汚い手段でも成果を上げる必要があった
こうしてアテルイを謀殺して田村麻呂は英雄になるのだが
田村麻呂が811年に死ぬとさっそくエミシ征伐は頓挫し終結してしまう
田村麻呂が獲得した盛岡の城なども死後10年ぐらいで放棄している
要するに朝廷の軍事力は結局アテルイらの土地に浸透することはなく
かえって諦めて撤退していくのだ
最後の勝者はアテルイであったと評価しても言い過ぎではない >>555
だから日本は中国から文字文明を早期に学び取って
この時期には漢字と仮名を使い分けるまでに発展してるよね。
日本経由でも渤海経由でも中国文明を取り入れる機会はいくらでもあったのにそれをしない蛮族で
そんな程度では英雄などいやしないってことだよ。
現代でいうとネットどころか本も読まないDQNと同じ >>556
>朝廷はエミシの信頼を得ることはなく
いや、その後結局、帰順していったんですよ >>557
俺の言いたいことを端的にまとめてくれてありがとう ちなみに朝廷側の兵力をエミシ38年戦争の後の状態(9世紀初頭)で見てみよう
出羽・陸奥(今の東北全域を指す)において
朝廷軍はおよそ1万人ぐらいとの記録が残っている
もっとも実際には、国府、城、柵の防衛には沢山の俘囚長を使っていたようなので
おそらく本当の意味での朝廷軍は5千ぐらいだったのではないか
これが9世紀の最初だが、その後財政難で次第に減っていったようである
10世紀になると記録すらあまり残っていない
要するに朝廷の東北支配は10世紀になると有名無実になるのだ
この10世紀の空白のあとに、11世紀になると今度は各地に朝廷側の豪族が現れてくる
それが奥州藤原氏や清原氏や安倍氏なのだが
いずれも系図は不明で、俘囚長と名乗る者が多い
もちろん完全にエミシではなかろうが貴族でもない
おそらくは朝廷から派遣された国府などの役人が土着し、俘囚(エミシ)と合体した勢力なのである 蝦夷の集団もいいけど更に少人数の「土蜘蛛」もロマンある名前多いよ 俘囚之上頭を奥州藤原氏は自認していたのだが。
その奥州藤原氏は半自立的豪族だよね。 >>564
当時の民衆は母系だった。貴族だって男子だけ引き取っていたが、女子は基本母系家族。
だから、朝廷からの役人が蝦夷の豪族と母系で繋がっていたのだろう。
奥州藤原氏なんか、死後ミイラを作っている。これはアイヌの豪族の風習だ。
母系のアイヌの豪族の風習を取り入れなければならないほど、その影響下にあったのだろう。 >>567
周王朝出身の太伯が、百越のひとつである呉に入った際、
その習俗である入れ墨(顔までびっしり入れるもの)を自ら希望して施したとあるが
ちょっと似てる面があるね >>60
東北マンセー作家の高橋克彦かな
義経=チンギス・ハン説を本気で信じてるらしい >>563
そうだろ
その後、どんどん抵抗は減っていってるだろ
で何?
今時、ウリは蝦夷ニダなんて人はいるの?
韓国人はウンコを食べる >>541
>鎮圧に当たった朝廷軍は結局鎮圧は無理と諦めて逆に罪を許し税を減免することを通告する。
>結局これで反乱軍は帰順するのだが、
>すでにこの時期でさえ、朝廷はエミシを制御する能力がほぼないことが見て取れるのである
ホントはもっと酷くて、エミシから川(雄物川か?多分五城目の馬場目川だろう後年の伝承やら考古学知見と一致する)
から北の土地は俺たちのモノだと宣言され、切り取られてしまうのだと思う。
その証拠に、914年の十和田湖大噴火の記録が一切無かったりとか、地名辞典として使える『和名類聚抄』にこの地区
以北の地名が一切記録されていないことだ。 >>567
全然
ミイラ作ってたのは樺太の方で、北海道じゃ全く 今の東北人だってエミシの末裔よりは
朝廷の奥羽植民政策で関東からつれてこられたのとか
頼朝の奥州征伐後に移住してきたのとかが多いんじゃないか >>570
長い年月だとそうなるが、一時期大和政権が手出しできなくなったんだよ。
そして、914年の北東北の大破局と繋がる訳だ。 >>572
樺太アイヌは古いアイヌの文化を保っていたから、問題ナシ。 >>571
そうだろうね
俘囚長(エミシ)が城を防衛して周囲はその俘囚長が統率するエミシなのだから
朝廷の意見なんて全く無視してOKなわけである
もちろん無視すれば出羽国府から征伐軍が来るけどそれを蹴散らす軍事力が秋田の俘囚長にあれば問題ない
秋田城も878年の俘囚の大反乱より以降はほぼその機能を失っていったんだと思うよ なんかネトウヨがエミシの無文字社会を嘲笑しているが
それが縄文一万年で潰えた日本列島に住まう先住民
すなわち「日本民族文明」の限界なんだよwww
そうして「縄文日本人」は偉大なる大韓半島から渡来してきた「弥生大韓人」に
完膚なきまでにホロンぼされてしまうわけでさ、その悲劇的な物語が>>1なわけでね。
なにを自称愛国者のネトウヨ病身がpgrしているのかウリにはさっぱりわからないんだが、
よく考えれば他ならぬネトウヨも偉大なる大韓民族の一員だもんな
劣後文明の未開な日本縄文文明を小ばかにしたくなる気持ちは、わかるwww >>569
こちらが義経が10歳の時の頭蓋骨で御座います >>573
ようわからんがその関東から連れてこられたのと奥州討伐後に移住してきたのとエミシの混血は何に分類するつもりなん? ついでにいうと竪穴式住居をつくったことがあるネトウヨならわかると思うがw
あれってね、一人じゃ作れないんだよ。基本的にはね。
と、いうことは縄文1万年の間に言葉はあったと思うよ。
猟や狩りやるのだってあるいは漁労採集するのだって共同生活してたわけでさ
言葉はあったはずなんだよ。あとはあれだ、縄文土器の縄目とかね。
ああいうのは伝承されたってことは、もちろん言葉があったんだよ、日本人も。
でももうその言葉はわからない。
チミらの先祖である大韓人、渡来弥生人が完膚なきまでにホロンぼしちゃったからねw
まったくピサロやコルテスみたいなコンキスタドーレだな、大和朝廷はwww
ラス=カサス的精神をもつウリには承認しがたいねwww >>579
同化しちゃったんだからエミシを東北のアイデンティティをするのもおかしな話ってこと >>580
単に古い文化(言語、風習)を保存していたから、それが藤原三代にあってもアイヌの風習の継承としても問題ナシ。
>>577
元慶の乱で、秋田城に要求を突きつけた蝦夷は、自分たちの要求をリストアップしそれを「文章で表して、提出」している。
蝦夷に文章を書ける人がいなければそんなことは出来ない。 >>569
あのさあ、チミがネトウヨなんだか誰なんだか知らないけど
義経がジンギスカンになったっていうのは絵画資料としても残っているわけだが?w
まあ、この板の自称日本美術史の専門家であるネトウヨは知るまいがw
川端龍子先生の傑作、その名も「源義経(ジンギスカン)」をみれば
義経が蒙古に渡り砂漠でラクダに乗っていたことは寸毫の疑いもないわけだがねwww >>581
竪穴式住居は縄文人だけではなく日本人も使っていたよ。大衆の住居だ。
12世紀後半に和歌山県で作られた、粉河寺縁起絵巻に竪穴式住居の絵がある。
まあ、外見は四角だけどね。 アイヌの風習でミイラがあるなら証拠を出してくださいね
藤原三代以外にもないとおかしいわね
中尊寺って、仏教の寺ね。蝦夷時代には存在しない
むしろ、東北地方独特の仏教受容と考えた方がいいね
韓国人はウンコを喰らう クイ←東北
ニブフ←樺太
ウォルタ←北海道
クリル←千島
まとめてアイヌ
蝦夷はクイとウォルタ ねぷたとかねぶたの題材で選ばれるのは、アテルイじゃなくて田村麻呂なんだよな。
征服された側がいつのまにか征服者を英雄視するようになり、
征服者の子孫がいつのまにか自分たちを土着民だと錯覚するようなる。 ニブフは全く別だから区別化されてるんですけどね
全部まとめてアイヌニダなんて、大朝鮮帝国史レベルの主張 >>587
有力者がそれで葬送されるから、そのほかのって言っても簡単に見つかるわけねーべw
逆に、大和政権下で、即心仏(これは生きている間にいろいろやってミイラになる。死後内蔵を取り出さない)以外で
ミイラになった例あるかよw >>13
それは実は怒ってない
土人はやっぱり土人だなと呆れて部下に適当に返しとけって放置しただけ
感覚的には今の日本人が朝鮮人をどう思ってるかに近い ねぶた祭りは灯籠と七夕祭りの融合で蝦夷が作ったものじゃないだろw アイヌの風習でミイラがあるなら証拠を出してくださいね
藤原三代以外にもないとおかしいわね
中尊寺って、仏教(天台宗)の寺ね。蝦夷時代には存在しない
むしろ、東北地方独特の仏教受容と考えた方がいいね
仏教(密教系)なら即身仏があるし
韓国人はウンコを喰らう >>588
違うぜw 何言っているんだ。
クイ = アイヌの中国側呼称
ニブフ = 樺太中部にいた民族
ウィルタ = 樺太北部にいた民族 一時は南下して北海道にもいた
クリル = アイヌのロシア側呼称
従って クリル諸島=アイヌ人の島々 ニブフもクリルもオロチョンもみんな後ろにアイヌと付くが? >>595
即身仏はミイラと言っても、アイヌのように内蔵取ったりしないよw >>594
おう。
でもそこで、自分たちを蝦夷の子孫だと思っていたら、
アテルイのねぶたを作るだろう。
と思いつつ検索したら、2013年に阿弖流為のねぶたも出来たのね。
良いことじゃい。 >>597
ウンコを食べる人は、事例くらい出して下さいね >>588
その辺は「北海道旧土人法」で一緒くたに扱われただけで、
本人どうしも、周囲の倭人も違いは分かっていたと思うの。 >>590
おや、ひさしぶり
敗者による勝者の顕彰という論点でいえば
今、別スレだと長州出の安倍が率いる内閣が
国家として明治維新150周年を祝うとか閣議決定したそうだが
この奉祝行事の担い手には維新で苦汁をなめさせられた佐幕藩、
ことに奥羽越列藩同盟の東北やら一会桑も含まれるということを考えると、
なかなかに象徴的な話だねw >601
30年位前からオヤスという青森市にあったアイヌの国が題材のが普通にあったぞ。女酋長だけど アテルイ2世は岩原(石原)都知事が最高だったな
高橋克彦先生すごい >>604
皮肉なことに、安倍首相は自らを俘囚の長を自認する安倍氏の子孫としているんだよね。
このスレ的には蝦夷側ってことに…。 奥州藤原氏自体、一般に藤原氏と見られてたからね
遠祖の藤原頼遠は、下総国住人
藤原経清は、従五位まで上ってる 津軽藩時代にい村(獣へんに犬)が普通に合って共存していた。毒矢の名手 >>604
敗者の側が敗者の自覚を持って服従するのは、辛いけれども
健康的なことだと思うのよ。
敗者の側がいつのまにか「自分は征服者の子孫だ」と信じるようになる、
その過程を想像すると怖いなと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています