田村麻呂とそれに先行する時代に朝廷は沢山の東北の城柵(エミシ支配のための軍事・行政拠点)を作り
それが教科書に地図で載っている。
細かい柵も入れると20ぐらいはあるからまるで朝廷の東北支配がこれらの城柵で完成したと誤解する受験生も多いだろう

しかし実際はこれらの城柵は短いものは10年ぐらいで放棄されたのである
9世紀初頭に朝廷のエミシ戦争が集結すると大半の城・柵は意味をなさなくなる
9世紀全体を通じて実際に朝廷の兵や朝廷側のエミシ(いわゆる俘囚)が防衛していた城柵は
わずかに秋田城、多賀城、胆沢城ぐらいのものである
これらも10世紀に入ると活動の記録がほぼなくなる

朝廷の東北支配とはこれらわずかな勢力拠点に兵を置きしかもその兵の多くがエミシ(俘囚)という極めて脆弱なものだった
一例として9世紀後半の秋田城における大規模な俘囚(エミシ)反乱を見る。
秋田は朝廷が非常に古くから開拓した役所であり、役所中心にエミシの集落が形成された経緯があった
この友好的な秋田エミシが反乱した理由は、国司貴族による過酷な重税とされている
朝廷は鎮圧を図るが反乱エミシのほうが強く結局秋田城は焼失してしまった
鎮圧に当たった朝廷軍は結局鎮圧は無理と諦めて逆に罪を許し税を減免することを通告する。
結局これで反乱軍は帰順するのだが、
すでにこの時期でさえ、朝廷はエミシを制御する能力がほぼないことが見て取れるのである