【岩手】蝦夷のリーダー“アテルイ” 「大墓公」姓、朝廷が授与 「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」
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墳丘上から杉の木が伸びる角塚古墳。古代から「胆沢地域のランドマーク」だった可能性がある(奥州市で)
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角塚古墳周辺の主要な遺跡
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由来「古墳」「田茂山」からか
平安時代初期、胆沢(現奥州市)を拠点に朝廷軍と対立した蝦夷(えみし)のリーダー、アテルイ。今も歴史小説やドラマ、舞台の主人公として人気だが、文献上の記述は少なく、その生涯には謎も多い。近年、遺跡の発掘成果などを基にした新たな研究で、意外な人物像も浮かび上がってきた。その一端を紹介する。
世界遺産候補になった大阪府堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)で知られる前方後円墳。円形と台形の墳丘を合わせた堂々たる造りで、大和王権の権力のシンボルとも言える有力者の墓だが、奥州市胆沢には国内最北の前方後円墳がある。
角塚古墳は全長約45メートル。高さ約4・5メートルの円形の墳丘から立派な杉の木が伸び、地元では「一本杉」の愛称で親しまれている国の史跡だ。築造は5世紀後半とされ、同じ胆沢で8世紀後半に活躍したアテルイとは約300年の開きがある。近年、二つの時代をつなぐ発掘成果が相次いでいる。
◇
角塚古墳周辺の繁栄の様子が分かるのは、約2キロ北にある5世紀代の中半入(なかはんにゅう)遺跡(奥州市水沢)だ。大阪府産の須恵器や宮城県産の黒曜石、久慈の琥珀(こはく)などが出土しており、近畿地方の古墳文化の影響を受けつつ、北東北の文物も受け入れている。
石包丁などもあり、胆沢周辺ではコメ作りが盛んだったことがわかる。より北の地域では弥生時代に稲作が流入したが、寒冷のため根付かなかったとされる。胆沢は農業文化圏と非農業文化圏の交接点で、角塚古墳に埋葬された人物は、両地域の物資の流通を通じて力を蓄えた有力者の可能性がある。
その後の遺跡として注目されるのが、5世紀後半〜6世紀前半の墓がまとまって見つかった沢田遺跡(奥州市胆沢)だ。角塚古墳の築造に関わった勢力の末裔(まつえい)による遺跡と解釈されているが、前方後円墳ではないため角塚古墳の被葬者より格下とみられる。
当時は大和王権の力がより強固になり、東北でも徐々に地域の有力者の力がそがれていったとされる。墓の形の変遷は、中央と地方の力関係の変化を示しているのかもしれない。
◇
沢田遺跡に隣接する石田I・2遺跡でも大規模な集落跡が見つかっており、特に7世紀後半〜8世紀前半には竪穴住居が急増した様子が見てとれる。水田が広がり、南北の交易地として繁栄した胆沢でアテルイは生まれ育った。
姓の「大墓公」は朝廷から与えられたものだ。この時代の文献では前方後円墳を「大墓」と称する例がみられる。地元の歴史研究団体「アテルイを顕彰する会」事務局長の朝倉授(さずく)さん(68)は「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」と解説する。大墓を「たも」と読み、奥州市内の地名の「田茂山」が由来とする説も根強い。田茂山はアテルイが朝廷軍と戦った場所で、この説を有力視する研究者も多い。
いずれにしても朝廷から姓を授けられたという事実は、アテルイ一族が朝廷と良好な関係を深めていた証しだ。アテルイはどのような心境の変化から“反逆者”になったのだろうか。
アテルイ
本名は大墓公阿弖流為(おおはかのきみ・あてるい)。8世紀後半〜9世紀初頭、現在の奥州市を拠点に、朝廷に属さない蝦夷を率いた。延暦8年(789年)に朝廷軍を破ったが、同21年(802年)に征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、河内国(現大阪府)で処刑された。
読売新聞 2018年08月07日
https://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20180807-OYTNT50058.html >>390
ほんとだよ。
却下された時逃がそうともしたけど
二人が逃げなかった。 >>684
現代ではその八岐遠呂智もポケモンで退治されました… >>697
婆よ
東北の某所の個人所有の神社だから詳しく言えないが
坂上田村麻呂の神社のすぐ近くから蝦夷の遺構があった
神社の建立直前にその遺構は廃墟となったらしい
つまり・・・だ >>700
USAの人が、ネイティブアメリカンの遺跡に教会を建てるようなもんか。
実際問題、今の世の中に「アテルイ教」とかないから、神社を
建てても良い気がするが、どうなんじゃろ?
>>698
それってどこまで史実なんじゃろ?
「火怨」ではクライマックスだったけど。 為信が北辰の魔方陣を張った。くど寺、もや山、巌鬼山、妙見、他忘れた。 あ、思い出した。その神社の狛犬の目。なんとハートマークw >>702
蝦夷の集落が途絶えた年代は
地層や木炭から年代も検証されているから確かな物
そのすぐ近くの田村麻呂が建立した神社は
建立年代は蝦夷の集落が途絶えた直後
蝦夷には既に原始的な仏教が浸透していたのかな?
平泉の近くに磨崖仏も残ってるし 青森には石神信仰があった。その後山岳信仰に置き換わる。 近親婚は昭和20年代でも珍しくなかった 宮城県大沢村(今の仙台市青葉区)
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/04/381.html
>>656
東北は歴史的に貧しく、田畑を分割しないように、近親結婚で分家を防いだ。
つまり「余所者を入れない事」 は【蝦夷族】にとっては必要な事だったのだ・・・ 派立による新田開発と水呑百姓。
現代の感覚で歴史みても的はずれ。 西日本の荒ぶる神々を伊豆半島の向こう側に千別けたと言われているだろう
蜂子皇子や小手子とかもそうだし、東北は中央で権力争いに敗れた勢力が逃れる先
外部勢力が豊かな畿内、芦原中津國、食国を治めようと権力争いを繰り返してきただけだ
そして畿内に根を持たない勢力は、基盤がないので政権は長くは続かない
倭国大乱以降延々とそういうことが繰り返されてきたんだよ
蝦夷はかつて畿内を武力で征伐した勢力の末裔 日本列島が人類発祥の地でない以上、縄文人も弥生人も蝦夷も琉球も大和もみんな渡来人!
狭い島国、同じ渡来人の子孫同士、仲良くしよう☆ >>714
近親婚が危険だということは分かっていたから、記録を見ると山村の村でも、やたら遠いトコ
から嫁を貰っているぞ。 イトコ婚は 一族の結束を強める という理由もあって、
下級武士でも頻繁に行われてただろ 庶民は下級武士のそういった風習にこだわる必要がないのでね >>717
それはそうなんだけど、本土日本人、とりわけ畿内人は朝鮮人なんだよ。 青森がウラル系とアイヌと倭人の混在で
蝦夷はツングースの粛慎だよ、古代は勃海の辺りと交流があった >>694
マタギとアイヌの間には
セタ(犬)、マキリ(小刀)、ケリ(靴)など、共通の語彙も多い
獲物を仕留めた後の魂送りの儀式などの共通の習慣もある
地名については山間部だけでなく、東北6県全域にアイヌ語で解けるものがある .>>655
>Bつうとエタ、よつとヒニン。犯罪者世捨てびと。藍死体しょり。
他に古墳の墓守。まつろわぬ民。納税しないもの
>>722
朝鮮半島からの奴隷難民の移配制とかそこから管理を逃れ山賊化したものだな 因幡国司「移配蝦夷には絹と麻を支給してたけど、因幡は寒いので今年は全部絹にしました!」
天皇「いややり過ぎやろ…(東北の方がもっと寒いからな)」
このやり取りほんますこ >>478
その北上市に住んでるが、往年の祖母がよく言っていたが、割と最近まで南部藩と伊達藩の男女の結婚が憚られていた事情があったようだから、血の交流は確かに少なかったのかもしれん。 このスレはマジで楽しいし勉強になる
今日の夕方に落ちるのか 集落→古墳→神社→寺
ってのは言ってみれば時代の流行
すぐに侵略者が元々の文化を潰したとか言うけどむしろ典型的な発展過程
これらは特に地方有力者のシンボルとして機能してた物だからその有力者の中央との付き合い方で形が変わる
年代が似通ってるのはむしろ田村麻呂にあやかったよくある伝承だろう
安易な結びつけは危険 神社の創建年代なんて不明なところばかりだからな
地方にゆかりのある有力者に仮託する事なんてよくある話
阿倍比羅夫や田村麻呂なんてうってつけだからな
寺も何でもかんでも行基や空海の創建にされるのと同じだよw >>723
ウラルアルタイ説は否定されて、
今ウラル系と言ったらほんとに東寄りでもウラル山脈とかその北の北極圏とかだぞ
エミシがツングースっていう証拠はあるの?ツングースの言語資料はたっぷりあるが >>729
近隣の村同士を仲違いさせておくためにそういう話をでっちあげておくって手法だろうな 会津・庄内藩は、プロイセンに北海道を渡して武力介入させ、天皇を傀儡にして操るつもりだった。
その書簡がドイツ国立軍事文書館で発見された。
http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/28769788.html
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html
プロイセン海軍大臣は、日本の混乱に乗じて、領土確保すべきと進言したが、
宰相ビスマルクは国際協調を重視し、武力介入を断っている。
会津・庄内藩は、北海道を売って外国軍に武力介入させ、天皇のクビを挿げ替えて、国を奪おうとしていた。
7〜9世紀の蝦夷征討(えみしせいとう)
1180年の源頼朝による、平泉の藤原一族の掃討。
1590年の豊臣秀吉による奥州仕置。
1868年の戊辰戦争での奥羽越列藩同盟の制圧。
歴史を見れば、東北はずっと反日。
歴史の転換点では、毎回、日本VSエミシ族の戦いになっている。
そして、5ちゃんでも。 歴史は繰り返す・・・・ >>433
俺も東北だけど、部落って集落って意味で使ってたけど、東北から南の人達は差別用語って使っててビックリした >>738
ソーイングマシンの前の方を省略してミシンって言うのと同根。何で重要な方を省略するw >>733
そりゃそうなんだけど、なんで田村麻呂がヒーローでアテルイが悪路王
なのよと考えると、釈然としないよなあ。
>>739
日本人って、そういうのに無頓着だよなw
「携帯」とか。 >>159
バチュラー神父はアイヌ人の保護に尽力するなどアイヌ人の恩人だけど、その本は批判を受けている。
東大卒のアイヌ人言語学者の知里真志保は日本人的儒教感覚は皆無だから、たとえ師匠の金田一だろうがアイヌ人の恩人だろうが容赦は一切ない 東北もそうだけど、九州も貧民が多かったみたい。
「日本娘子軍」や「日本人慰安婦」は九州出身者が多かったよ。 >>135
>811年に徳丹柵(岩手県矢巾町)が築かれ以降は大きな反乱もなく、蝦夷の住民は同化政策により吸収された。
は誤認されている
811年以降も蝦夷達の大きな反乱があった
878年には東北出羽国の秋田柵で俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田柵城司に対して大規模な反乱を起してる
秋田柵城が焼かれて出羽に駐留していた朝廷の派遣軍勢では対応できないほどの反乱規模になってる
蝦夷の東北社会は集落が散財して大きな権力集中の見られないことが特徴とされてたが
この秋田柵での反乱では米代川や八郎潟流域に及ぶ蝦夷の住民勢力が統一した行動を起こし
雄物川以北を蝦夷達の占有地とすることを朝廷に強く要求。
朝廷から出羽権守として派遣された藤原保則は鎮守将軍小野春風とともに
軍事威圧を背景にして説得し、その策によってようやく蝦夷達による秋田柵の反乱の鎮圧に成功
藤原保則の伝記に
「これによって津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、帰付せざるもの、皆ことごとく同化さす。」と記されている。 「俘囚」は蝦夷なの?「夷俘」は蝦夷みたいだけど。
> 俘囚ハ、本ト是レ王民ニシテ、夷賊ノ為ニ抄略セラレテ、遂ニ賤隷ト成リタル者ヲ謂フナリ、
> 夷俘ハ、原ト夷種ニシテ、官軍ノ為ニ捕獲セラレタル者ヲ謂フナリ、 >>744
これの出典は何なん?
俺は「俘囚」は蝦夷だと習った気がする。 >>746
おお、ありがとう。
明治政府の編纂ということで、北海道旧土人以外は皇民という
建前に矛盾しないように記述したのかしらん。 >>739
いやいや被差別部落を部落と略しているわけではなく、
部落は部落で、集落と同じ意味。
どっちかというと、被差別部落って言う言葉が後発でしょう >>748
(1) 被差別部落
(2) いわゆる被差別部落
(3) いわゆる部落
(4) 部落
みたいなステップで「被差別」が欠落していった気がする。
「携帯電話」の場合は語の後半が落ちたから、いきなりだったけど。 そりゃ違う。
集落 部落 地名
特に地名??同族が部落か
部が荘園に隷属な印象 俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。 日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種 の起源がある。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。 朝鮮半島からの日本へ連行された戦争捕虜の数も凄かったもんな でも、今の東北人はエミシと関係ないけどなw
どうでも良いけど、クール・ジャパン頑張れよ。
ねぶたもそうだけど、鮮やかな金や赤などの平安・鎌倉の鎧兜、 日本刀、
アニメやゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダーなど、東北発祥は重要なんだからw >>756
> でも、今の東北人はエミシと関係ないけどなw
関係ないのか? 本当に関係ないのんか?
東北人じゃない俺ですら、>>638を読んだら尻の穴がムズムズしてくるぞ。 >>757
ほとんど関係ないと思うよ。
平安末期、鎌倉時代、南北朝の頃の移住者がほとんどだからねw >>759
そうなんか?
蝦夷を俘囚として他の地域に移した記録は知っているが、
倭人を入植させた記録はどんなもんじゃろ。 >>760
記録も糞もないだろw
事実がそうなんだからw >>761
すまん。
その東北への移住者について教えておくれ。
何時頃の時期にどのくらいの人数が、どこからどこに入ったの? >>762
主に関東経由かな?
武士は桓武平氏系や清和源氏(摂津源氏、河内源氏、大和源氏は石川氏など)、藤原秀郷系、
村上源氏は佐々木氏など、ってか、南北朝時代や戦国時代を知らないのか?w
てか、東北は南北朝の動乱が凄かっただろ? 南朝方で負けた方は帰農したり、北朝方の武将の傘下に入ったんだよ。
あと、「藩」とか知ってる? 幕末に戦ったのは武士だぞ? >>763
んで、その結果として、>>756
> でも、今の東北人はエミシと関係ないけどなw
という状態に至ったと?
なぜ、そう言えるのだろう? 阿弖流為=悪路王なの?
阿弖流為と悪路王では最期が違うみたいだけど。 まつろわぬ民の歴史って残ってないのかな
興味あるんだけど 東北地方の南北朝での主な勢力
【南朝方】
南部師行・工藤氏・伊達氏・北畠氏・大江氏・結城氏・多田氏・小国氏・菊池氏・山家氏・その他多数
【北朝方】
南部政長・曽我氏・浅利氏・安東氏・斯波氏・吉良氏・石塔氏・相馬氏・畠山氏・芦名氏・国魂氏・伊賀氏・その他多数 関ヶ原の合戦後の主な全国大名石高ランキング
※徳川・豊臣は除く
1. 前田利長(加賀/金沢) 119.5
2. 結城秀康(越前/北ノ庄)67.0
3. 伊達政宗(陸奥/仙台) 60.5
4. 蒲生秀行(陸奥/会津) 60.0
5. 最上義光(出羽/山形) 57.0
6. 島津忠恒(薩摩/大隈) 56.0
7. 黒田長政(筑前/福岡) 52.3
8. 加藤清正(肥後/熊本) 52.0
8. 池田輝政(播磨/姫路) 52.0
8. 松平忠吉(尾張/清洲) 52.0
11. 小早川秀秋(備前/岡山)51.0
12. 福島正則(安芸/広島) 49.8
【減封】
毛利輝元(周防/長門) 36.9
上杉景勝(出羽/米沢) 30.0
佐竹義宣(出羽/秋田) 20.0 ※元(常陸/水戸)は54.5であったが、上杉討伐に応えず、減封 >>11
そんなに強かったのなら、
朝廷を攻め滅ぼせたはず
それができず一方的に攻められ、最後に滅ぼされている時点で強くはない >>750
いや、部落という言葉があって、
あとから被差別という言葉をくっつけただけだろ。
被差別という言葉と概念のほうが新しいだろう。 >>766
めんどうくさいなw
普通の住民とか中世以前ならググって調べれば?
古墳時代や物部系や蘇我系や小野系、尾張や信濃からの移住・・・
関東からの移住や、その他。 >>772
もちろんそうだ。
「被差別部落」という言葉は、おそらく20世紀になってできた言葉だろう。
で、>>750はそれ以降の経過。
>>773
根拠を挙げられないことはわかった。
絡んで済まんかったな。 >>768
ないよ!
それで捏造された和田家文書群が
変に持て囃されたりしたわけで。 >>774
根拠って何だよ、根拠ってw
事実なんだからどうしたらいいのよ? >>763
実は、東北諸藩は農兵が多かったりする。
一旗揚げようとするため、農兵の方が和平に慣れた武士よりも戦闘の実績があったとする記録さえある。
武士の部隊が壊滅する中、マタギ兵が戦果をあげた例もある。 司馬さんの街道をゆく第1巻では、関東武士は百済遺民の子孫ではないか、と推測していた >>783
自分たちの要求を、重税を科す和人に、きちんと文書で突きつけてました。 >>781
ああ、桓武平氏の熊谷氏の流れも東北にいるな・・・
てか、千葉氏系もいっぱいいる。新渡戸なんかもそう。
三浦系もそう。渋谷もそう。その系統だと、大谷翔平とかw >>785
新渡戸はモロにアイヌ語が苗字に入っているなw
当時の武士は支配地を苗字にしたから、必然的にアイヌ語地名が苗字になるんだよね。 >>789
アイヌ語地名が東北北部にも多数あるコトを調査し、それが学会で認められた山田秀三の
『東北・アイヌ語地名の研究』のp.101に載っている。「ニッ・オ・ペッ」の木片が多い沢であったのではないかとしている。
これは平成5年の地名研究大会で発表された内容のようだ。
アイヌ語研究は>>159のバチュラー神父による誤りが多い例もあるので慎重にやらんといかんがね。 利根川
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/m/m-tonegawa/gaiyou/about/B01.htm
アイヌ語の「トンナイ」に由来するなど、いくつかの説があります。また、「トネ」の語源についてもいくつかの説があります。
(1)アイヌ語で、巨大な谷を意味する「トンナイ」に由来する。
(2)同じアイヌ語で、沼や湖のように広くて大きい川を意味する。 古代の関東蝦夷と近代の北海道アイヌが同じ言語を使っていたかどうか分からないからねぇ。(´・ω・`) 続日本紀によると、延暦八年六月の戦いは蝦夷の陽動作戦に乗ってしまって惨敗したらしい。
官軍の将はこんな昔から無能だったんだね。戦死した兵士カワウソ。(´・ω・`) >>791
実際にはアイヌ語にそんな用例は無いようだ…。
勝手にアイヌ語を解釈する例は一杯ある。困ったモンだ。 >>743
そもそも803年に建築された志波城が811年頃に活動を早くも停止(水害のせいともいわれる)
それを縮小・移転した徳丹城も815年には護衛の兵力がいなくなったとされ
以後は俘囚(エミシ)が警護し、9世紀半ばで行政活動を終えたとされる
以上から次のことが解る
1田村麻呂最大の成果とされる志波城ですらわずか10年程度の活動でしかない
2それを継承した徳丹城はかなり縮小されておりしかも朝廷の兵力での維持はごく短期間
3朝廷は度重なるエミシ戦争で財政悪化に直面、820年頃には兵力を大幅に削減するまで追い込まれていた
4減退する朝廷兵力の代わりに俘囚(エミシ)が城・柵を護衛した
5結局エミシ軍がエミシ地域を統括しているに等しく、朝廷の支配とは名ばかりのものであった 大陸と半島からの防衛が必要なくなって蝦夷戦争が終わってでもうこの頃には日本国軍てもんが無くなっちゃうんだよな
徴兵制度に基づく国軍の歩兵部隊からプロの戦闘集団による騎兵部隊へ移行して後に武士が生まれる
時代は違うがヨーロッパと同じ道を辿った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています